らくらく読書 夏目漱石 吾輩は猫である(4) タイトルバナー

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夏目漱石の吾輩は猫である(4)の1ページ目の一文 吾輩は新年来多少有名になったので、猫ながらちょっと鼻が高く感ぜらるるのはありがたい。

 吾輩(わがはい)は新年来(しんねんらい)多少(たしょう)有名(ゆうめい)になったので、猫(ねこ)ながらちょっと鼻(はな)が高(たか)く感(かん)ぜらるるのはありがたい。
  元朝(がんちょう)早々(そうそう)主(しゅじん)人の許(もと)へ一枚(いちまい)の絵端書(えはがき)が来(き)た。 これは彼(かれ)の交友(こうゆう)某(ぼう)画家(がか)からの年始(ねんし)状(じょう)であるが、上部(じょうぶ)を赤(あか)、下部(かぶ)を深緑(ふかみど)りで塗(ぬ)って、その真中(まんなか)に一の動物(どうぶつ)が蹲踞(うずくま)っているところをパステルで書(か)いてある。 
主人(しゅじん)は例(れい)の書斎(しょさい)でこの絵(え)を、横(よこ)から見(み)た。

夏目漱石の吾輩は猫である(4)の2ページ目の一文 からだを拗じ向けたり、手を延ばして年寄が三世相を見るようにしたり、または窓の方へむいて鼻の先まで持って来たりして見ている。早くやめてくれないと膝が揺れて険呑でたまらない。

すでに一応(いちおう)感服(かんぷく)したものだから、もうやめにするかと思(おも)うとやはり横(よこ)から見(み)たり、竪(たて)から見(み)たりしている からだを拗(ね)じ向(む)けたり、手(て)を延(の)ばして年(としより)寄が三(さん)世相(ぜそう)を見(み)るようにしたり、または窓(まど)の方(ほう)へむいて鼻(はな)の先(さき)まで持(も)って来(き)たりして見(み)ている。 早(はや)くやめてくれないと膝(ひざ)が揺(ゆ)れて険呑(けんのん)でたまらない ようやくの事(こと)で動揺(どうよう)があまり劇(はげ)しくなくなったと思(おも)ったら、小(ちい)さな声(こえ)で一体(いったい)何(なに)をかいたのだろうと云(い)う。

夏目漱石の吾輩は猫である(4)の3ページ目の一文 主人のようにアンドレア・デル・サルトを極め込んだものでもあるまいが、画家だけに形体も色彩もちゃんと整って出来ている。誰が見たって猫に相違ない。

主人(しゅじん)は絵端書(えはがき)の色(いろ)には感服(かんぷく)したが、かいてある動物(どうぶつ)の正体(しょうたい)が分(わか)らぬので、さっきから苦心(くしん)をしたものと見(み)える。 そんな分(わか)らぬ絵端書(えはがき)かと思(おも)いながら、寝(ね)ていた眼(め)を上品(じょうひん)に半(なか)ば開(ひら)いて、落(お)ちつき払(はら)って見(み)ると紛(まぎ)れもない、自分(じぶん)の肖像(しょうぞう)だ 主人(しゅじん)のようにアンドレア・デル・サルトを極(き)め込(こ)んだものでもあるまいが、画家(がか)だけに形体(けいたい)も色彩(しきさい)もちゃんと整(ととの)って出来(でき)ている。 誰(だれ)が見(み)たって猫(ねこ)に相違(そうい)ない。

夏目漱石の吾輩は猫である(4)の4ページ目の一文 出来る事ならその絵が吾輩であると云う事を知らしてやりたい。吾輩であると云う事はよし分らないにしても、せめて猫であるという事だけは分らしてやりたい。

少(すこ)し眼識(がんしき)のあるものなら、猫(ねこ)の中(うち)でも他(ほか)の猫(ねこ)じゃない吾輩(わがはい)である事(こと)が判然(はんぜん)とわかるように立派(りっぱ)に描(か)いてある。 このくらい明瞭(めいりょう)な事(こと)を分(わか)らずにかくまで苦心(くしん)するかと思(おも)うと、少(すこ)し人間(にんげん)が気(き)の毒(どく)になる。出(で)来(き)る事(こと)ならその絵(え)が吾(わがはい)輩であると云(い)う事(こと)を知(し)らしてやりたい吾輩(わがはい)であると云(い)う事(こと)はよし分(わか)らないにしても、せめて猫(ねこ)であるという事(こと)だけは分(わか)らしてやりたい。

夏目漱石の吾輩は猫である(4)の5ページ目の一文 しかし人間というものは到底吾輩猫属の言語を解し得るくらいに天の恵に浴しておらん動物であるから、残念ながらそのままにしておいた。

しかし人間(にんげん)というものは到底(とうてい)吾輩(わがはい)猫属(ねこぞく)の言語(げんご)を解(かい)し得(え)るくらいに天(てん)の恵(めぐみ)に浴(よく)しておらん動物(どうぶつ)であるから、残念(ざんねん)ながらそのままにしておいた。  ちょっと読者(どくしゃ)に断(ことわ)っておきたいが、元来(がんらい)人間(にんげん)が何(なん)ぞというと猫(ねこ)々と、事(こと)もなげに軽侮(けいぶ)の口調(くちょう)をもって吾輩(わがはい)を評価(ひょうか)する癖(くせ)があるははなはだよくない。 人間(にんげん)の糟(かす)から牛(うし)と馬(うま)が出来(でき)て、牛(うし)と馬(うま)の糞(くそ)から猫(ねこ)が製造(せいぞう)されたごとく考(かんが)えるのは、自分(じぶん)の無智(むち)に心(こころづ)付かんで高慢(こうまん)な顔(かお)をする教師(きょうし)などにはありがちの事(こと)でもあろうが、

夏目漱石の吾輩は猫である(4)の6ページ目の一文 目付でも、鼻付でも、毛並でも、足並でも、みんな違う。髯の張り具合から耳の立ち按排、尻尾の垂れ加減に至るまで同じものは一つもない。

はたから見(み)てあまり見(み)っともいい者(もの)じゃない いくら猫(ねこ)だって、そう粗末(そまつ)簡便(かんべん)には出来(でき)ぬ。 よそ目(め)には一列(れつ)一体(いったい)、平等(びょうどう)無差別(むさべつ)、どの猫(ねこ)も自家(じか)固有(こゆう)の特色(とくしょく)などはないようであるが、猫(ねこ)の社会(しゃかい)に這入(はい)って見(み)るとなかなか複雑(ふくざつ)なもので十人(にん)十色(といろ)という人間界(にんげんかい)の語(ことば)はそのままここにも応用(おうよう)が出来(でき)るのである 目(め)付(つき)でも、鼻付(はなつき)でも、毛並(けなみ)でも足並(あしなみ)でも、みんな違(ちが)う。 髯(ひげ)の張(は)り具合(ぐあい)から耳(みみ)の立(た)ち按排(あんばい)、尻尾(しっぽ)の垂(た)れ加減(かげん)に至(いた)るまで同(おな)じものは一(ひと)つもない。

夏目漱石の吾輩は猫である(4)の7ページ目の一文 同類相求むとは昔しからある語だそうだがその通り、餅屋は餅屋、猫は猫で、猫の事ならやはり猫でなくては分らぬ。

器量(きりょう)、不器量(ぶきりょう)、好(す)き嫌(きら)い、粋無粋(すいぶすい)の数(かず)を悉(つ)くして千差万(せんさばんべつ)別と云(い)っても差支(さしつか)えないくらいである。 そのように判然(はんぜん)たる区別(くべつ)が存(ぞん)しているにもかかわらず、人間(にんげん)の眼(め)はただ向上(こうじょう)とか何(なん)とかいって、空(そら)ばかり見(み)ているものだから、吾輩(わがはい)の性質(せいしつ)は無論(むろん)相貌(そうぼう)の末(すえ)を識別(しきべつ)する事(こと)すら到底(とうてい)出来(でき)ぬのは気(き)の毒(どく)だ 同類相(どうるいあい)求(もと)むとは昔(むか)しからある語(ことば)だそうだがその通(とお)り、餅屋(もちや)は餅屋、猫(ねこ)は猫で、猫の事(こと)ならやはり猫でなくては分(わか)らぬ。 いくら人間(にんげん)が発達(はったつ)したってこればかりは駄目(だめ)である。

夏目漱石の吾輩は猫である(4)の8ページ目の一文 彼は性の悪い牡蠣のごとく書斎に吸い付いて、かつて外界に向って口を開いた事がない。それで自分だけはすこぶる達観したような面構をしているのはちょっとおかしい。

いわんや実際(じっさい)をいうと彼等(かれら)が自(みずか)ら信(しん)じているごとくえらくも何(なん)ともないのだからなおさらむずかしい またいわんや同情(どうじょう)に乏(とぼ)しい吾輩(わがはい)の主人(しゅじん)のごときは、相互(そうご)を残(のこ)りなく解(かい)するというが愛(あい)の第(だい)一義(ぎ)であるということすら分(わか)らない男(おとこ)なのだから仕方(しかた)がない 彼(かれ)は性(しょう)の悪(わる)い牡蠣(かき)のごとく書(しょさい)斎に吸(す)い付(つ)いて、かつて外界(がいかい)に向(むか)って口(くち)を開(ひら)いた事(こと)がない それで自(じ)分(ぶん)だけはすこぶる達(たっかん)観したような面構(つらがまえ)をしているのはちょっとおかしい。

夏目漱石の吾輩は猫である(4)の9ページ目の一文 吾輩が主人の膝の上で眼をねむりながらかく考えていると、やがて下女が第二の絵端書を持って来た。

達観(たっかん)しない証拠(しょうこ)には現(げん)に吾輩(わがはい)の肖像(しょうぞう)が眼(め)の前(まえ)にあるのに少(すこ)しも悟(さと)った様子(ようす)もなく今年(ことし)は征露(せいろ)の第(だい)二年(ねん)目(め)だから大方(おおかた)熊(くま)の画(え)だろうなどと気(き)の知(し)れぬことをいってすましているのでもわかる。  吾輩(わがはい)が主人(しゅじん)の膝(ひざ)の上(うえ)で眼(め)をねむりながらかく考(かんが)えていると、やがて下女(げじょ)が第(だい)二の絵端書(えはがき)を持(も)って来(き)た。 見(み)ると活(かっぱん)版で舶(はくらい)来の猫(ねこ)が四五疋(ひき)ずらりと行列(ぎょうれつ)してペンを握(にぎ)ったり書物(しょもつ)を開(ひら)いたり勉強(べんきょう)をしている その内(うち)の一疋(ひき)は席(せき)を離(はな)れて机(つくえ)の角(かど)で西洋(せいよう)の猫(ねこ)じゃ猫(ねこ)じゃを躍(おど)っている。

夏目漱石の吾輩は猫である(4)の10ページ目の一文 その上に日本の墨で「吾輩は猫である」と黒々とかいて、右の側に書を読むや躍るや猫の春一日という俳句さえ認められてある。

その上(うえ)に日本(にほん)の墨(すみ)で「吾輩(わがはい)は猫(ねこ)である」と黒々(くろぐろ)とかいて、右(みぎ)の側(わき)に書(しょ)を読(よ)むや躍(おど)るや猫(ねこ)の春一日(はるひとひ)という俳句さえ認(したた)められてある。 これは主人(しゅじん)の旧(きゅう)門(もんかせい)下生より来(き)たので誰(だれ)が見(み)たって一見(いっけん)して意味(いみ)がわかるはずであるのに、迂(う)濶(かつ)な主(しゅじん)人はまだ悟(さと)らないと見(み)えて不思議(ふしぎ)そうに首(くび)を捻(ひね)って、はてな今年(ことし)は猫(ねこ)の年(とし)かなと独言(ひとりごと)を言(い)った。 吾輩(わがはい)がこれほど有名(ゆうめい)になったのを未(ま)だ気(き)が着(つ)かずにいると見(み)える。  ところへ下女(げじょ)がまた第(だい)三の端書(はしがき)を持(も)ってくる。 今度(こんど)は絵端書(えはがき)ではない。

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吾輩は猫である

吾輩は猫である』(わがはいはねこである)は、夏目漱石の長編小説であり、処女小説である。
1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』にて発表されたのだが、好評を博したため、翌1906年(明治39年)8月まで継続した。 上、1906年10月刊、中、1906年11月刊、下、1907年5月刊。
「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。」という書き出しで始まり、中学校の英語教師である珍野苦沙弥の家に飼われている猫である「吾輩」の視点から、珍野一家や、そこに集う彼の友人や門下の書生たち、「太平の逸民」(第二話、第三話)の人間模様が風刺的・戯作的に描かれている。
着想は、E.T.A.ホフマンの長編小説『牡猫ムルの人生観』だと考えられている。 また『吾輩は猫である』の構成は、『トリストラム・シャンディ』の影響とも考えられている。

あらすじ

吾輩は猫である(4) 第二章
「吾輩」の最初の記憶は、「薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた」ことである。出生の場所は当人の記憶にはない(とんと見当がつかぬ)。その後まもなく書生に拾われ、書生が顔の真ん中から煙を吹いていたものがタバコであることをのちに知る。書生の掌の上で運ばれ(移動には何を利用したかは不明)、笹原に我輩だけ遺棄される。その後大きな池の前~何となく人間臭い所~竹垣の崩くずれた穴から、とある邸内に入り込み、下女につまみ出されそうになったところを教師(苦沙弥先生)に拾われ、住み込む。
人間については飼い主の言動によりわがままであること、また車屋の黒によると、不人情で泥棒も働く不徳者であると判断する。

登場人物

吾輩(主人公の猫)
珍野家で飼われている雄猫。本編の語り手。「吾輩」は一人称であり、彼自身に名前はない。人間の生態を鋭く観察したり、猫ながら古今東西の文芸に通じており哲学的な思索にふけったりする。人間の内心を読むこともできる。

珍野 苦沙弥(ちんの くしゃみ)
猫「吾輩」の飼い主で、文明中学校の英語教師。妻と3人の娘がいる。偏屈な性格で、胃が弱く、ノイローゼ気味である(漱石自身がモデルとされる)。あばた面で、くちひげをたくわえる。その顔は今戸焼のタヌキとも評される。頭髪は長さ二寸くらい、左で分け、右端をちょっとはね返らせる。吸うタバコは朝日。酒は、元来飲めず、平生なら猪口で2杯。なお胃弱で健康に気を遣うあまり、毎食後にはタカジアスターゼを飲み、また時には鍼灸術を受け悲鳴を上げたり按腹もみ療治を受け悶絶したりとかなりの苦労人でもある。

車屋の黒
大柄な雄の黒猫。べらんめえ調で教養がなく、大変な乱暴者なので「吾輩」は恐れている。

迷亭(めいてい)
苦沙弥の友人の美学者。ホラ話で人をかついで楽しむのが趣味の粋人。近眼で、金縁眼鏡を装用し、金唐皮の烟草入を使用する。 美学者大塚保治がモデルともいわれるが漱石は否定したという。また、漱石の妻鏡子の著書『漱石の思ひ出』には、漱石自身が自らの洒落好きな性格を一人歩きさせたのではないかとする内容の記述がある。

御三(おさん)
珍野家の下女。名は清という。主人公の猫「吾輩」を好いていない。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』吾輩は猫である 

夏目漱石

夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日〈慶応3年1月5日〉 - 1916年〈大正5年〉12月9日)は、日本の教師・小説家・評論家・英文学者・俳人。本名は夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。
俳号は愚陀仏。明治末期から大正初期にかけて活躍し、今日通用する言文一致の現代書き言葉を作った近代日本文学の文豪の一人。
代表作は『吾輩は猫である』『吾輩は猫である』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』など。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』夏目漱石

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(読書プレーヤーでは各行を1行ずつ、1文字単位のスクロール表示が可能)、

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以下は芥川龍之介の羅生門の1ページ目から2ページ目までの 1行ずつ表示(全ての漢字にルビを表示) の例(GIF動画)

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