らくらく読書 夏目漱石 吾輩は猫である 第一章(3) タイトルバナー

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夏目漱石の吾輩は猫である(3)の1ページ目の一文 

吾輩(わがはい)が車屋(くるまや)の黒(くろ)と知己(ちき)になったのはこれからである。
 その後(ご)吾輩(わがはい)は度々(たびたび)黒(くろ)と邂逅(かいこう)する。邂逅(かいこう)する毎(ごと)に彼(かれ)は車屋(くるまや)相当(そうとう)の気焔(きえん)を吐(は)く。先(さき)に吾輩(わがはい)が耳(みみ)にしたという不徳(ふとく)事件(じけん)も実(じつ)は黒(くろ)から聞(き)いたのである。
 或(あ)る日(ひ)例(れい)のごとく吾輩(わがはい)と黒(くろ)は暖(あたた)かい茶畠(ちゃばたけ)の中(なか)で寝転(ねころ)びながらいろいろ雑談(ざつだん)をしていると、彼(かれ)はいつもの自慢(じまん)話(じまんばな)しをさも新(あたら)しそうに繰(く)り返(かえ)したあとで、吾輩(わがはい)に向(むか)って下(しも)のごとく質問(しつもん)した。「 御(お)めえ は今(いま)までに鼠(ねずみ)を何匹(なんびき)とった事(こと)がある」

夏目漱石の吾輩は猫である(3)の2ページ目の一文 

智識(ちしき)は黒(くろ)よりも余程(よほど)発達(はったつ)しているつもりだが腕力(わんりょく)と勇気(ゆうき)とに至(いた)っては到底(とうてい)黒(くろ)の比較(ひかく)にはならないと覚悟(かくご)はしていたものの、この問(とい)に接(せっ)したる時(とき)は、さすがに極(きま)りが善(よ)くはなかった。けれども事実(じじつ)は事実(じじつ)で詐(いつわ)る訳(わけ)には行(い)かないから、吾輩(わがはい)は「実(じつ)はとろうとろうと思(おも)ってまだ捕(と)らない」と答(こた)えた。黒(くろ)は彼(かれ)の鼻(はな)の先(さき)からぴんと突張(つっぱ)っている長(なが)い髭(ひげ)をびりびりと震(ふる)わせて非常(ひじょう)に笑(わら)った。

夏目漱石の吾輩は猫である(3)の3ページ目の一文 

元来(がんらい)黒(くろ)は自慢(じまん)をする丈(だけ)にどこか足(た)りないところがあって、彼(かれ)の気焔(きえん)を感心(かんしん)したように咽喉(のど)をころころ鳴(な)らして謹聴(きんちょう)していればはなはだ御(ぎょ)しやすい猫(ねこ)である。吾輩(わがはい)は彼(かれ)と近付(ちかづき)になってから直(すぐ)にこの呼吸(こきゅう)を飲(の)み込(こ)んだからこの場合(ばあい)にもなまじい己(おの)れを弁護(べんご)してますます形勢(けいせい)をわるくするのも愚(ぐ)である、いっその事(こと)彼(かれ)に自分(じぶん)の手柄(てがら)話(ばなし)をしゃべらして御茶(おちゃ)を濁(にご)すに若(し)くはないと思案(しあん)を定(さだ)めた。そこでおとなしく「君(きみ)などは年(とし)が年(とし)であるから大分(だいぶん)とったろう」とそそのかして見(み)た。

夏目漱石の吾輩は猫である(3)の4ページ目の一文 

果然(かぜん)彼(かれ)は墻壁(しょうへき)の欠所(けっしょ)に吶喊(とっかん)して来(き)た。「たんとでもねえが三四十はとったろう」とは得意気(とくいげ)なる彼(かれ)の答(こたえ)であった。彼(かれ)はなお語(ご)をつづけて「鼠(ねずみ)の百や二百は一人(ひとり)でいつでも引(ひ)き受(う)けるが いたち ってえ奴(やつ)は手(て)に合(あ)わねえ。一度(いちど) いたち に向(むか)って酷(ひど)い目(め)に逢(あ)った」「へえなるほど」と相槌(あいづち)を打(う)つ。黒(くろ)は大(おお)きな眼(め)をぱちつかせて云(い)う。「去年(きょねん)の大掃除(おおそうじ)の時(とき)だ。

*果然(かぜん) とは 結果が、考えていたとおりであるさま。予想どおりであるさま。
*墻壁(しょうへき) とは へだてるもの。じゃま。また、さまたげること。
*吶喊(とっかん) とは 大勢の者が一時に大声をあげて叫ぶこと。鬨(とき)の声をあげること。

夏目漱石の吾輩は猫である(3)の5ページ目の一文 

うちの亭主(ていしゅ)が石灰(いしばい)の袋(ふくろ)を持(も)って椽(えん)の下(した)へ這(は)い込(こ)んだら 御(お)めえ 大(おお)きな いたち の野郎(やろう)が面喰(めんくら)って飛(と)び出(だ)したと思(おも)いねえ」「ふん」と感心(かんしん)して見(み)せる。「 いたち ってけども何(なに)鼠(ねずみ)の少(すこ)し大(おお)きいぐれえのものだ。こん畜生(ちきしょう)って気(き)で追(お)っかけてとうとう泥(どろ)溝(どぶ)の中(なか)へ追(お)い込(こ)んだと思(おも)いねえ」「うまくやったね」と喝采(かっさい)してやる。「ところが 御(お)めえ いざってえ段(だん)になると奴(やつ)め最後(さいご)っ屁(ぺ)をこきゃがった。

夏目漱石の吾輩は猫である(3)の6ページ目の一文 

臭(くせ)えの臭(くさ)くねえのってそれからってえものは いたち を見(み)ると胸(むね)が悪(わる)くならあ」彼(かれ)はここに至(いた)ってあたかも去年(きょねん)の臭気(しゅうき)を今(いま)なお感(かん)ずるごとく前足(まえあし)を揚(あ)げて鼻(はな)の頭(あたま)を二三遍(べん)なで廻(まわ)わした。吾輩(わがはい)も少々(しょうしょう)気(き)の毒(どく)な感(かん)じがする。ちっと景気(けいき)を付(つ)けてやろうと思(おも)って「しかし鼠(ねずみ)なら君(きみ)に睨(にら)まれては百年目(ひゃくねんめ)だろう。

夏目漱石の吾輩は猫である(3)の7ページ目の一文 

君(きみ)はあまり鼠(ねずみ)を捕(と)るのが名人(めいじん)で鼠(ねずみ)ばかり食(く)うものだからそんなに肥(ふと)って色(いろ)つやが善(よ)いのだろう」黒(くろ)の御機嫌(ごきげん)をとるためのこの質問(しつもん)は不思議(ふしぎ)にも反対(はんたい)の結果(けっか)を呈出(ていしゅつ)した。彼(かれ)は喟然(きぜん)として大息(たいそく)していう。「考(かん)げえるとつまらねえ。いくら稼(かせ)いで鼠(ねずみ)をとったって――一てえ人間(にんげん)ほどふてえ奴(やつ)は世(よ)の中(なか)にいねえぜ。人(ひと)のとった鼠(ねずみ)をみんな取(と)り上(あ)げやがって交番(こうばん)へ持(も)って行(い)きゃあがる。交番(こうばん)じゃ誰(だれ)が捕(と)ったか分(わか)らねえからその たんび に五銭(せん)ずつくれるじゃねえか。

*喟然(きぜん) とは ためいきをつく様子。嘆息するさま。
*大息(たいそく) とは

夏目漱石の吾輩は猫である(3)の8ページ目の一文 

うちの亭主(ていしゅ)なんか己(おれ)の御蔭(おかげ)でもう壱(いち)円(えん)五十銭(せん)くらい儲(もう)けていやがる癖(くせ)に、碌(ろく)なものを食(く)わせた事(こと)もありゃしねえ。おい人間(にんげん)てものあ体(てい)の善(い)い泥棒(どろぼう)だぜ」さすが無学(むがく)の黒(くろ)もこのくらいの理窟(りくつ)はわかると見(み)えてすこぶる怒(おこ)った容子(ようす)で背中(せなか)の毛(け)を逆立(さかだ)てている。吾輩(わがはい)は少々(しょうしょう)気味(きみ)が悪(わる)くなったから善(い)い加減(かげん)にその場(ば)を胡魔化(ごまか)して家(うち)へ帰(かえ)った。この時(とき)から吾輩(わがはい)は決(けっ)して鼠(ねずみ)をとるまいと決心(けっしん)した。しかし黒(くろ)の子分(こぶん)になって鼠(ねずみ)以外(いがい)の御馳走(ごちそう)を猟(あさ)ってあるく事(こと)もしなかった。

夏目漱石の吾輩は猫である(3)の9ページ目の一文 

御馳走(ごちそう)を食(く)うよりも寝(ね)ていた方(ほう)が気楽(きらく)でいい。教師(きょうし)の家(うち)にいると猫(ねこ)も教師(きょうし)のような性質(せいしつ)になると見(み)える。要心(ようじん)しないと今 (いま)に胃弱(いじゃく)になるかも知(し)れない。
 教師(きょうし)といえば吾輩(わがはい)の主人(しゅじん)も近頃(ちかごろ)に至(いた)っては到底(とうてい)水彩画(すいさいが)において望(のぞみ)のない事(こと)を悟(さと)ったものと見(み)えて十二月(がつ)一日(にち)の日記(にっき)にこんな事(こと)をかきつけた。

  ○○と云(い)う人(ひと)に今日(きょう)の会(かい)で始(はじ)めて出逢(であ)った。あの人(ひと)は大分(だいぶ)放蕩(ほうとう)をした人(ひと)だと云(い)うがなるほど通人(つうじん)らしい風采(ふうさい)をしている。

夏目漱石の吾輩は猫である(3)の10ページ目の一文 

こう云(い)う質(たち)の人(ひと)は女(おんな)に好(す)かれるものだから○○が放蕩(ほうとう)をしたと云(い)うよりも放蕩(ほうとう)をするべく余儀(よぎ)なくせられたと云(い)うのが適当(てきとう)であろう。あの人(ひと)の妻君(さいくん)は芸者(げいしゃ)だそうだ、羨(うらや)ましい事(こと)である。元来(がんらい)放蕩(ほうとう)家(か)を悪(わる)くいう人(ひと)の大部分(だいぶぶん)は放蕩(ほうとう)をする資格(しかく)のないものが多(おお)い。また放蕩(ほうとう)家(か)をもって自任(じにん)する連中(れんちゅう)のうちにも、放蕩(ほうとう)する資格(しかく)のないものが多(おお)い。これらは余儀(よぎ)なくされないのに無理(むり)に進(すす)んでやるのである。

*放蕩(ほうとう) とは 思うままに振る舞うこと。特に、酒や女遊びにふけること。また、そのさま。

夏目漱石の吾輩は猫である(3)の11ページ目の一文 

あたかも吾輩(わがはい)の水彩画(すいさいが)に於(お)けるがごときもので到底(とうてい)卒業(そつぎょう)する気(き)づかいはない。しかるにも関(かん)せず、自分(じぶん)だけは通人(つうじん)だと思(おも)って済(すま)している。料理(りょうり)屋(や)の酒(さけ)を飲(の)んだり待合(まちあわせ)へ這入(はい)るから通人(つうじん)となり得(え)るという論(ろん)が立(た)つなら、吾輩(わがはい)も一廉(ひとかど)の水彩(すいさい)画家(がか)になり得(え)る理窟(りくつ)だ。吾輩(わがはい)の水彩画(すいさいが)のごときはかかない方(ほう)がましであると同(おな)じように、愚昧(ぐまい)なる通人(つうじん)よりも山出(やまだ)しの大野暮(おおやぼ)の方(ほう)が遥(はる)かに上等(じょうとう)だ。

*通人(つうじん) とは 多くの物事を知っている人。広い知識をもっている人。
*一廉(ひとかど) とは ひときわすぐれていること。ひときわ目立つこと。
*愚昧(ぐまい) とは ろかでものの道理にくらいこと。また、そのさま。愚鈍。愚蒙。

夏目漱石の吾輩は猫である(3)の12ページ目の一文 

 通人論(つうじんろん)はちょっと首肯(しゅこう)しかねる。また芸者(げいしゃ)の妻君(さいくん)を羨(うらやま)しいなどというところは教師(きょうし)としては口(くち)にすべからざる愚劣(ぐれつ)の考(かんがえ)であるが、自己(じこ)の水彩画(すいさいが)における批評眼(ひひょうがん)だけはたしかなものだ。主人(しゅじん)はかくのごとく自(より)知(じち)の明(めい)あるにも関(かん)せずその自惚心(うぬぼれしん)はなかなか抜(ぬ)けない。中(なか)二日(なかふつか)置(お)いて十二月(がつ)四日(にち)の日記(にっき)にこんな事(こと)を書(か)いている。

夏目漱石の吾輩は猫である(3)の13ページ目の一文 

昨夜(ゆうべ)は僕(ぼく)が水彩画(すいさいが)をかいて到底(とうてい)物(もの)にならんと思(おも)って、そこらに抛(ほう)って置(お)いたのを誰(だれ)かが立派(りっぱ)な額(がく)にして欄間(らんま)に懸(か)けてくれた夢(ゆめ)を見(み)た。さて額(がく)になったところを見(み)ると我(われ)ながら急(きゅう)に上手(じょうず)になった。非常(ひじょう)に嬉(うれ)しい。これなら立派(りっぱ)なものだと独(ひと)りで眺(なが)め暮(く)らしていると、夜(よる)が明(あ)けて眼(め)が覚(さ)めてやはり元(もと)の通(とお)り下手(へた)である事(こと)が朝日(あさひ)と共(とも)に明瞭(めいりょう)になってしまった。

*欄間(らんま) とは 天井と鴨居(かもい)との間の開口部。採光・通風のために設け、格子や透かし彫りの板などをはめて装飾も兼ねる。

夏目漱石の吾輩は猫である(3)の14ページ目の一文 

 主人(しゅじん)は夢(ゆめ)の裡(うち)まで水彩画(すいさいが)の未練(みれん)を背負(しょ)ってあるいていると見(み)える。これでは水彩(すいさい)画家(がか)は無論(むろん) 夫子(ふうし)の所謂(いわゆる)通人(つうじん)にもなれない質(たち)だ。  主人(しゅじん)が水彩画(すいさいが )を夢(ゆめ)に見(み)た翌日(よくじつ)例(れい)の金縁(きんぶち)眼鏡(めがね)の美(び)学者(がくしゃ)が久(ひさ)し振(ぶ)りで主人(しゅじん)を訪問(ほうもん)した。彼(かれ)は座(ざ)につくと劈頭(へきとう)第(だい)一に「画(え)はどうかね」と口(くち)を切(き)った。主人(しゅじん)は平気(へいき)な顔(かお)をして「君(きみ)の忠告(ちゅうこく)に従(したが)って写生(しゃせい)を力(つと)めているが、なるほど写生(しゃせい)をすると今(いま)まで気(き)のつかなかった物(もの)の形(かたち)や、色(いろ)の精細(せいさい)な変化(へんか)などがよく分(わか)るようだ。

*夫子(ふうし) とは 長者・賢者・先生などを敬って呼ぶ語。
*劈頭(へきとう) とは 事のはじめ。まっさき。最初。
棒三昧(1895)〈正岡子規〉「彼の所説を雑誌の 劈頭 に掲げて以て雑誌の栄となすに至りては」

夏目漱石の吾輩は猫である(3)の15ページ目の一文 

西洋(せいよう)では昔(むか)しから写生(しゃせい)を主張(しゅちょう)した結果(けっか)今日(こんにち)のように発達(はったつ)したものと思(おも)われる。さすがアンドレア・デル・サルトだ」と日記(にっき)の事(こと)は おくび にも出(だ)さないで、またアンドレア・デル・サルトに感心(かんしん)する。美(び)学者(がくしゃ)は笑(わら)いながら「実(じつ)は君(きみ)、あれは出鱈目(でたらめ)だよ」と頭(あたま)を掻(か)く。「何(なに)が」と主人(しゅじん)はまだいつられた事(こと)に気(き)がつかない。「何(なに)がって君(きみ)のしきりに感服(かんぷく)しているアンドレア・デル・サルトさ。あれは僕(ぼく)のちょっと捏造(ねつぞう)した話(はなし)だ。

夏目漱石の吾輩は猫である(3)の16ページ目の一文 

君(きみ)がそんなに真面目(まじめ)に信(しん)じようとは思(おも)わなかったハハハハ」と大(だい)喜悦(きえつ)の体(てい)である。吾輩(わがはい)は椽(えん)側(がわ)でこの対話(たいわ)を聞(き)いて彼(かれ)の今日(きょう)の日記(にっき)にはいかなる事(こと)が記(しる)さるるであろうかと予(あらかじ)め想像(そうぞう)せざるを得(え)なかった。この美(び)学者(がくしゃ)はこんな好(いい)加減(かげん)な事(こと)を吹(ふ)き散(ち)らして人(ひと)を担(かつ)ぐのを唯一(ゆいいつ)の楽(たのしみ)にしている男(おとこ)である。彼(かれ)はアンドレア・デル・サルト事件(じけん)が主人(しゅじん)の情線(じょうせん)にいかなる響(ひびき)を伝(つた)えたかを毫(ごう)も顧慮(こりょ)せざるもののごとく得意(とくい)になって下(しも)のような事(こと)を饒舌(しゃべ)った。

*喜悦(きえつ) とは 喜ぶこと。喜び。
*毫(ごう) とは 極めてわずかなこと。 目方または長さの単位。1毫は1厘りんの10分の1。
*顧慮(こりょ) とは 深く考えて、それに思いをめぐらすこと。気を配ること。


夏目漱石の吾輩は猫である(3)の17ページ目の一文 

「いや時々(ときどき)冗談(じょうだん)を言(い)うと人(ひと)が真(ま)に受(う)けるので大(おおい)に滑稽的(こっけいてき)美感(びかん)を挑撥(ちょうはつ)するのは面白(おもしろ)い。せんだってある学生(がくせい)にニコラス・ニックルベーがギボンに忠告(ちゅうこく)して彼(かれ)の一世(いっせい)の大著(だいちょ)述(じゅつ)なる仏国(ふつこく)革命(かくめい)史(し)を仏語(ふつご)で書(か)くのをやめにして英文(えいぶん)で出版(しゅっぱん)させたと言(い)ったら、その学生(がくせい)がまた馬鹿(ばか)に記憶(きおく)の善(よ)い男(おとこ)で、日本(にほん)文学(ぶんがく)会(かい)の演説会(えんぜつかい)で真面目(まじめ)に僕(ぼく)の話(はな)した通(とお)りを繰(く)り返(かえ)したのは滑稽(こっけい)であった。ところがその時(とき)の傍聴者(ぼうちょうしゃ)は約(やく)百名(めい)ばかりであったが、皆(みな)熱心(ねっしん)にそれを傾聴(けいちょう)しておった。

*傾聴(けいちょう) とは 耳を傾けて、熱心に聞くこと。

夏目漱石の吾輩は猫である(3)の18ページ目の一文 

それからまだ面白(おもしろ)い話(はなし)がある。せんだって或(あ)る文学者(ぶんがくしゃ )のいる席(せき)でハリソンの歴史(れきし)小説(しょうせつ)セオファーノの話(はな)しが出(で)たから僕(ぼく)はあれは歴史(れきし)小説(しょうせつ)の中(うち)で白眉(はくび)である。ことに女主人公(おんなしゅじんこう)が死(し)ぬところは鬼気(きき)人(じん)を襲(おそ)うようだと評(ひょう)したら、僕(ぼく)の向(むこ)うに坐(すわ)っている知(し)らんと云(い)った事(こと)のない先生(せんせい)が、そうそうあすこは実(じつ)に名文(めいぶん)だといった。それで僕(ぼく)はこの男(おとこ)もやはり僕(ぼく)同様(どうよう)この小説(しょうせつ)を読(よ)んでおらないという事(こと)を知(し)った」神経(しんけい)胃弱(いじゃく)性(せい)の主人(しゅじん)は眼(め)を丸(まる)くして問(と)いかけた。

夏目漱石の吾輩は猫である(3)の19ページ目の一文 

「そんな出鱈目(でたらめ)をいってもし相手(あいて)が読(よ)んでいたらどうするつもりだ」あたかも人(ひと)を欺(あざむ)くのは差支(さしつかえ)ない、ただ化(ばけ)の皮(かわ)があらわれた時(とき)は困(こま)るじゃないかと感(かん)じたもののごとくである。美(び)学者(がくしゃ)は少(すこ)しも動(どう)じない。「なにその時(とき)ゃ別(べつ)の本(ほん)と間違(まちが)えたとか何(なん)とか云(い)うばかりさ」と云(い)ってけらけら笑(わら)っている。この美(び)学者(がくしゃ)は金縁(きんぶち)の眼鏡(めがね)は掛(か)けているがその性質(せいしつ)が車屋(くるまや)の黒(くろ)に似(に)たところがある。

夏目漱石の吾輩は猫である(3)の20ページ目の一文 

主人(しゅじん)は黙(だま)って日(ひ)の出(で)を輪(わ)に吹(ふ)いて吾輩(わがはい)にはそんな勇気(ゆうき)はないと云(い)わんばかりの顔(かお)をしている。美(び)学者(がくしゃ)はそれだから画(え)をかいても駄目(だめ)だという目付(めつき)で「しかし冗談(じょうだん)は冗談(じょうだん)だが画(え)というものは実際(じっさい)むずかしいものだよ、レオナルド・ダ・ヴィンチは門下生(もんかせい)に寺院(じいん)の壁(かべ)の しみ を写(うつ)せと教(おし)えた事(こと)があるそうだ。なるほど雪隠(せついん)などに這入(はい)って雨(あめ)の漏(も)る壁(かべ)を余念(よねん)なく眺(なが)めていると、なかなかうまい模様(もよう)画(え)が自然(しぜん)に出来(でき)ているぜ。

*レオナルド・ダ・ヴィンチ とは イタリア盛期ルネサンスの巨匠。トスカナ地方のビンチ村生れ。絵画,彫刻,建築のほか,自然学,工学,音楽など多方面に才能を発揮した。
*雪隠(せついん) とは 厠(かわや),便所のこと。せっちん ともいう。

夏目漱石の吾輩は猫である(3)の21ページ目の一文 

君(きみ)注意(ちゅうい)して写生(しゃせい)して見(み)給(たま)えきっと面白(おもしろ)いものが出来(でき)るから」「また欺(だま)すのだろう」「いえこれだけはたしかだよ。実際(じっさい)奇警(きけい)な語(ご)じゃないか、ダ・ヴィンチでもいいそうな事(こと)だあね」「なるほど奇警(きけい)には相違(そうい)ないな」と主人(しゅじん)は半分(はんぶん)降参(こうさん)をした。しかし彼(かれ)はまだ雪隠(せついん)で写生(しゃせい)はせぬようだ。
 車屋(くるまや)の黒(くろ)はその後(ご)跛(びっこ)になった。彼(かれ)の光沢(こうたく)ある毛(け)は漸々(だんだん)色(いろ)が褪(さ)めて抜(ぬ)けて来(く)る。吾輩(わがはい)が琥珀(こはく)よりも美(うつく)しいと評(ひょう)した彼(かれ)の眼(め)には眼(め)脂(めやに)が一杯(いっぱい)たまっている。

夏目漱石の吾輩は猫である(3)の22ページ目の一文 

ことに著(いちじ)るしく吾輩(わがはい)の注意(ちゅうい)を惹(ひ)いたのは彼(かれ)の元気(げんき)の消沈(しょうちん)とその体格(たいかく)の悪(わる)くなった事(こと)である。吾輩(わがはい)が例(れい)の茶園(ちゃえん)で彼(かれ)に逢(あ)った最後(さいご)の日(ひ)、どうだと云(い)って尋(たず)ねたら「 いたち の最後屁(さいごっぺ)と肴屋(さかなや)の天秤棒(てんびんぼう)には懲々(こりごり)だ」といった。
 赤松(あかまつ)の間(あいだ)に二三段(だん)の紅(こう)を綴(つづ)った紅葉(こうよう)は昔(むか)しの夢(ゆめ)のごとく散(ち)って つくばい に近(ちか)く代(かわ)る代(がわ)る花弁(はなびら)をこぼした紅白(こうはく)の山茶花(さざんか)も残(のこ)りなく落(お)ち尽(つく)した。

*山茶花(さざんか) とは 植物。ツバキ科の常緑小高木,園芸植物

夏目漱石の吾輩は猫である(3)の23ページ目の一文 

三間(さんげん)半(はん)の南向(みなみむき)の椽側(えんがわ)に冬(ふゆ)の日脚(ひあし)が早(はや)く傾(かたむ)いて木枯(こがらし)の吹(ふ)かない日(ひ)はほとんど稀(まれ)になってから吾輩(わがはい)の昼寝(ひるね)の時間(じかん)も狭(せば)められたような気(き)がする。
 主人(しゅじん)は毎日(まいにち)学校(がっこう)へ行(ゆ)く。帰(かえ)ると書斎(しょさい)へ立(た)て籠(こも)る。人(ひと)が来(く)ると、教師(きょうし)が厭(いや)だ厭(いや)だという。水彩画(すいさいが)も滅多(めった)にかかない。タカジヤスターゼも功能(こうのう)がないといってやめてしまった。小供(こども)は感心(かんしん)に休(やす)まないで幼稚(ようち)園(えん)へかよう。帰(かえ)ると唱歌(しょうか)を歌(うた)って、毬(まり)をついて、時々(ときどき)吾輩(わがはい)を尻尾(しっぽ)でぶら下(さ)げる。

夏目漱石の吾輩は猫である(3)の24ページ目の一文 

 吾輩(わがはい)は御馳走(ごちそう)も食(く)わないから別段(べつだん)肥(ふと)りもしないが、まずまず健康(けんこう)で跛(びっこ)にもならずにその日(ひ)その日(ひ)を暮(くら)している。鼠(ねずみ)は決(けっ)して取(と)らない。おさんは未(いま)だに嫌(きら)いである。名前(なまえ)はまだつけてくれないが、欲(よく)をいっても際限(さいげん)がないから生涯(しょうがい)この教師(きょうし)の家(うち)で無名(むめい)の猫(ねこ)で終(おわ)るつもりだ。

この続きは 吾輩は猫である(4) 夏目 漱石でご覧いただけます。

吾輩は猫である

吾輩は猫である』(わがはいはねこである)は、夏目漱石の長編小説であり、処女小説である。
1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』にて発表されたのだが、好評を博したため、翌1906年(明治39年)8月まで継続した。 上、1906年10月刊、中、1906年11月刊、下、1907年5月刊。
「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。」という書き出しで始まり、中学校の英語教師である珍野苦沙弥の家に飼われている猫である「吾輩」の視点から、珍野一家や、そこに集う彼の友人や門下の書生たち、「太平の逸民」(第二話、第三話)の人間模様が風刺的・戯作的に描かれている。
着想は、E.T.A.ホフマンの長編小説『牡猫ムルの人生観』だと考えられている。 また『吾輩は猫である』の構成は、『トリストラム・シャンディ』の影響とも考えられている。

あらすじ

吾輩は猫である 第一章(3)
「吾輩」の最初の記憶は、「薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた」ことである。出生の場所は当人の記憶にはない(とんと見当がつかぬ)。その後まもなく書生に拾われ、書生が顔の真ん中から煙を吹いていたものがタバコであることをのちに知る。書生の掌の上で運ばれ(移動には何を利用したかは不明)、笹原に我輩だけ遺棄される。その後大きな池の前~何となく人間臭い所~竹垣の崩くずれた穴から、とある邸内に入り込み、下女につまみ出されそうになったところを教師(苦沙弥先生)に拾われ、住み込む。
人間については飼い主の言動によりわがままであること、また車屋の黒によると、不人情で泥棒も働く不徳者であると判断する。

登場人物

吾輩(主人公の猫)
珍野家で飼われている雄猫。本編の語り手。「吾輩」は一人称であり、彼自身に名前はない。人間の生態を鋭く観察したり、猫ながら古今東西の文芸に通じており哲学的な思索にふけったりする。人間の内心を読むこともできる。

珍野 苦沙弥(ちんの くしゃみ)
猫「吾輩」の飼い主で、文明中学校の英語教師。妻と3人の娘がいる。偏屈な性格で、胃が弱く、ノイローゼ気味である(漱石自身がモデルとされる)。あばた面で、くちひげをたくわえる。その顔は今戸焼のタヌキとも評される。頭髪は長さ二寸くらい、左で分け、右端をちょっとはね返らせる。吸うタバコは朝日。酒は、元来飲めず、平生なら猪口で2杯。なお胃弱で健康に気を遣うあまり、毎食後にはタカジアスターゼを飲み、また時には鍼灸術を受け悲鳴を上げたり按腹もみ療治を受け悶絶したりとかなりの苦労人でもある。

車屋の黒
大柄な雄の黒猫。べらんめえ調で教養がなく、大変な乱暴者なので「吾輩」は恐れている。

迷亭(めいてい)
苦沙弥の友人の美学者。ホラ話で人をかついで楽しむのが趣味の粋人。近眼で、金縁眼鏡を装用し、金唐皮の烟草入を使用する。 美学者大塚保治がモデルともいわれるが漱石は否定したという。また、漱石の妻鏡子の著書『漱石の思ひ出』には、漱石自身が自らの洒落好きな性格を一人歩きさせたのではないかとする内容の記述がある。

御三(おさん)
珍野家の下女。名は清という。主人公の猫「吾輩」を好いていない。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』吾輩は猫である 

夏目漱石

夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日〈慶応3年1月5日〉 - 1916年〈大正5年〉12月9日)は、日本の教師・小説家・評論家・英文学者・俳人。本名は夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。
俳号は愚陀仏。明治末期から大正初期にかけて活躍し、今日通用する言文一致の現代書き言葉を作った近代日本文学の文豪の一人。
代表作は『吾輩は猫である』『吾輩は猫である』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』など。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』夏目漱石

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