らくらく読書 夏目漱石 吾輩は猫である(2) タイトルバナー

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夏目漱石の吾輩は猫である 第一章(2)の1ページ目の一文 俳句をやって ほととぎす へ投書をしたり、新体詩を明星へ出したり、間違いだらけの英文をかいたり、時によると弓に凝ったり、謡を習ったり、またあるときはヴァイオリンなどをブーブー鳴らしたりするが、気の毒な事には、どれもこれも物になっておらん。

俳句(はいく)をやって ほととぎす へ投書(とうしょ)をしたり、新体詩(しんたいし)を 明星(みょうじょう) へ出(だ)したり、間違(まちが)いだらけの英文(えいぶん)をかいたり、時(とき)によると弓(ゆみ)に凝(こ)ったり、謡(うたい)を習(なら)ったり、またあるときはヴァイオリンなどをブーブー鳴(な)らしたりするが、気(き)の毒(どく)な事(こと)には、どれもこれも物(もの)になっておらん。その癖(くせ)やり出(だ)すと胃弱(いじゃく)の癖(くせ)にいやに熱心(ねっしん)だ。後架(こうか)の中(なか)で謡(うたい)をうたって、近所(きんじょ)で後架(こうか)先生(せんせい)と渾名(あだな)をつけられているにも関(かん)せず一向(いっこう)平気(へいき)なもので、やはりこれは平(たいら)の宗盛(むねもり)にて候(そうろう)を繰返(くりかえ)している。

*後架(こうか)とは 禅寺で、僧堂の後にかけわたした洗面所。そばに便所があるところから転じて便所。
*謡(うたい)とは 能楽の詞章。または、これに節をつけてうたうこと。
*宗盛(むねもり)とは 平(たいらの)宗盛。平安末期の武将。父は平清盛(きよもり)、母は平時子

夏目漱石の吾輩は猫である(2)の2ページ目の一文 何を買って来たのかと思うと水彩絵具と毛筆とワットマンという紙で今日から謡や俳句をやめて絵をかく決心と見えた。

みんながそら宗盛(むねもり)だと吹(ふ)き出(だ)すくらいである。この主人(しゅじん)がどういう考(かんがえ)になったものか吾輩(わがはい)の住(す)み込(こ)んでから一月(がつ)ばかり後(のち)のある月(つき)の月給(げっきゅう)日(び)に、大(おお)きな包(つつ)みを提(さ)げてあわただしく帰(かえ)って来(き)た。何(なに)を買(か)って来(き)たのかと思(おも)うと水彩(すいさい)絵具(えのぐ)と毛筆(もうひつ)とワットマンという紙(かみ)で今日(きょう)から謡(うたい)や俳句(はいく)をやめて絵(え)をかく決心(けっしん)と見(み)えた。果(はた)して翌日(よくじつ)から当分(とうぶん)の間(あいだ)というものは毎日(まいにち)毎日(まいにち)書斎(しょさい)で昼寝(ひるね)もしないで絵(え)ばかりかいている。

*ワットマンとは 麻繊維を原料とする純白で厚手の高級図画用紙。水彩画用。

夏目漱石の吾輩は猫である(2)の3ページ目の一文 しかしそのかき上げたものを見ると何をかいたものやら誰にも鑑定がつかない。当人もあまり甘くないと思ったものか、ある日その友人で美学とかをやっている人が来た時に下のような話をしているのを聞いた。

しかしそのかき上(あ)げたものを見(み)ると何(なに)をかいたものやら誰(だれ)にも鑑定(かんてい)がつかない。当人(とうにん)もあまり甘(うま)くないと思(おも)ったものか、ある日(ひ)その友人(ゆうじん)で美学(びがく)とかをやっている人(ひと)が来(き)た時(とき)に下(しも)のような話(はなし)をしているのを聞(き)いた。 「どうも甘(うま)くかけないものだね。人(ひと)のを見(み)ると何(なん)でもないようだが自(みずか)ら筆(ふで)をとって見(み)ると今更(いまさら)のようにむずかしく感(かん)ずる」これは主人(しゅじん)の述懐(じゅっかい)である。なるほど詐(いつわ)りのない処(ところ)だ。

*美学とは 美と芸術の原理と諸相を研究する哲学の一分科

夏目漱石の吾輩は猫である(2)の4ページ目の一文 そう初めから上手にはかけないさ、第一室内の想像ばかりで画がかける訳のものではない。昔し以太利の大家アンドレア・デル・サルトが言った事がある。画をかくなら何でも自然その物を写せ。

彼(かれ)の友(とも)は金縁(きんぶち)の眼鏡(めがね)越(めがねごし)に主人(しゅじん)の顔(かお)を見(み)ながら、「そう初(はじ)めから上手(じょうず)にはかけないさ、第(だい)一室内(しつない)の想像(そうぞう)ばかりで画(え)がかける訳(わけ)のものではない。昔(むか)し以太利(イタリー)の大家(たいか)アンドレア・デル・サルトが言(い)った事(こと)がある。画(え)をかくなら何(なん)でも自然(しぜん)その物(もの)を写(うつ)せ。天(てん)に星辰(せいしん)あり。地(ち)に露(つゆ)華(ろか)あり。飛(と)ぶに禽(とり)あり。走(はし)るに獣(けもの)あり。池(いけ)に金魚(きんぎょ)あり。枯木(こぼく)に寒鴉(かんあ)あり。自然(しぜん)はこれ一幅(いっぷく)の大(だい)活(かつ)画(だいかつが)なりと。どうだ君(きみ)も画(かく)らしい画(え)をかこうと思(おも)うならちと写生(しゃせい)をしたら」

*アンドレア・デル・サルトとは イタリアの盛期ルネサンスの画家。
*寒鴉(かんあ)とは 冬の烏からす。

夏目漱石の吾輩は猫である(2)の5ページ目の一文 吾輩は例のごとく椽側に出て心持善く昼寝をしていたら、主人が例になく書斎から出て来て吾輩の後ろで何かしきりにやっている。

「へえアンドレア・デル・サルトがそんな事(こと)をいった事(こと)があるかい。ちっとも知(し)らなかった。なるほどこりゃもっともだ。実(じつ)にその通(とお)りだ」と主人(しゅじん)は無暗(むやみ)に感心(かんしん)している。金縁(きんぶち)の裏(うら)には嘲(あざ)けるような笑(わらい)が見(み)えた。
 その翌日(よくじつ)吾輩(わがはい)は例(れい)のごとく椽側(えんがわ)に出(で)て心持(こころもち)善(よ)く昼寝(ひるね)をしていたら、主人(しゅじん)が例(れい)になく書斎(しょさい)から出(で)て来(き)て吾輩(わがはい)の後(うし)ろで何(なに)かしきりにやっている。

夏目漱石の吾輩は猫である(2)の6ページ目の一文 彼は余念もなくアンドレア・デル・サルトを極め込んでいる。吾輩はこの有様を見て覚えず失笑するのを禁じ得なかった。

ふと眼(め)が覚(さ)めて何(なに)をしているかと一分(いちぶ)ばかり細目(さいもく)に眼(め)をあけて見(み)ると、彼(かれ)は余念(よねん)もなくアンドレア・デル・サルトを極(き)め込(こ)んでいる。吾輩(わがはい)はこの有様(ありさま)を見(み)て覚(おぼ)えず失笑(しっしょう)するのを禁(きん)じ得(え)なかった。彼(かれ)は彼(かれ)の友(とも)に揶揄(やゆ)せられたる結果(けっか)としてまず手初(てはじ)めに吾輩(わがはい)を写生(しゃせい)しつつあるのである。吾輩(わがはい)はすでに十分(じゅうぶん)寝(ね)た。欠伸(あくび)がしたくてたまらない。しかしせっかく主人(しゅじん)が熱心(ねっしん)に筆(ふで)を執(と)っているのを動(うご)いては気(き)の毒(どく)だと思(おも)って、じっと辛棒(しんぼう)しておった。

夏目漱石の吾輩は猫である(2)の7ページ目の一文 吾輩は猫として決して上乗の出来ではない。背といい毛並といい顔の造作といいあえて他の猫に勝るとは決して思っておらん。

彼(かれ)は今(いま)吾輩(わがはい)の輪廓(りんかく)をかき上(あ)げて顔(かお)のあたりを色彩(いろど)っている。吾輩(わがはい)は自白(じはく)する。吾輩(わがはい)は猫(ねこ)として決(けっ)して上乗(じょうじょう)の出来(でき)ではない。背(せ)といい毛並(けなみ)といい顔(かお)の造作(ぞうさ)といいあえて他(ほか)の猫(ねこ)に勝(まさ)るとは決(けっ)して思(おも)っておらん。しかしいくら不器量(ぶきりょう)の吾輩(わがはい)でも、今(いま)吾輩(わがはい)の主人(しゅじん)に描(えが)き出(だ)されつつあるような妙(みょう)な姿(すがた)とは、どうしても思(おも)われない。第一色(だいいちいろ)が違(ちが)う。吾輩(わがはい)は波斯産(ペルシャさん)の猫(ねこ)のごとく黄(き)を含(ふく)める淡灰色(たんかいしょく)に漆(うるし)のごとき斑入(ふい)りの皮膚(ひふ)を有(ゆう)している。

*波斯猫(ペルシャねこ)とは イエネコの品種。ペルシア原産。大形で、あしは太くて短い。体は絹状の長毛でおおわれ、とくに頬から胸にかけての毛が長い。

夏目漱石の吾輩は猫である(2)の8ページ目の一文 その上不思議な事は眼がない。もっともこれは寝ているところを写生したのだから無理もないが眼らしい所さえ見えないから盲猫だか寝ている猫だか判然しないのである。

これだけは誰(だれ)が見(み)ても疑(うたが)うべからざる事実(じじつ)と思(おも)う。しかるに今(いま)主人(しゅじん)の彩色(さいしょく)を見(み)ると、黄(き)でもなければ黒(くろ)でもない、灰色(はいいろ)でもなければ褐色(とびいろ)でもない、さればとてこれらを交(ま)ぜた色(いろ)でもない。ただ一種(いっしゅ)の色(いろ)であるというよりほかに評(ひょう)し方(かた)のない色(いろ)である。その上(うえ)不思議(ふしぎ)な事(こと)は眼(め)がない。もっともこれは寝(ね)ているところを写生(しゃせい)したのだから無理(むり)もないが眼(め)らしい所(ところ)さえ見(み)えないから盲猫(めくら)だか寝(ね)ている猫(ねこ)だか判然(はんぜん)しないのである。

*判然(はんぜん)しない とは はっきりとよくわからないこと。

夏目漱石の吾輩は猫である(2)の9ページ目の一文 吾輩は心中ひそかにいくらアンドレア・デル・サルトでもこれではしようがないと思った。しかしその熱心には感服せざるを得ない。

吾輩(わがはい)は心中(しんちゅう)ひそかにいくらアンドレア・デル・サルトでもこれではしようがないと思(おも)った。しかしその熱心(ねっしん)には感服(かんぷく)せざるを得(え)ない。なるべくなら動(うご)かずにおってやりたいと思(おも)ったが、さっきから小便(しょうべん)が催(もよおし)うしている。身内(みうち)の筋肉(きんにく)はむずむずする。最早(もはや)一分も猶予(ゆうよ)が出来(でき)ぬ仕儀(しぎ)となったから、やむをえず失敬(しっけい)して両足(りょうあし)を前(まえ)へ存分(ぞんぶん)のして、首(くび)を低(ひく)く押(お)し出(だ)してあーあと大(だい)なる欠伸(あくび)をした。さてこうなって見(み)ると、もうおとなしくしていても仕方(しかた)がない。

夏目漱石の吾輩は猫である(2)の10ページ目の一文 ほかに悪口の言いようを知らないのだから仕方がないが、今まで辛棒した人の気も知らないで、無暗に馬鹿野郎呼わりは失敬だと思う。

どうせ主人(しゅじん)の予定(よてい)は打(ぶ)ち壊(こ)わしたのだから、ついでに裏(うら)へ行(い)って用(よう)を足(た)そうと思(おも)ってのそのそ這(は)い出(だ)した。すると主人(しゅじん)は失望(しつぼう)と怒(いか)りを掻(か)き交(ま)ぜたような声(こえ)をして、座敷(ざしき)の中(なか)から「この馬鹿野郎(ばかやろう)」と怒鳴(どな)った。この主人(しゅじん)は人(ひと)を罵(ののし)るときは必(かなら)ず馬鹿野郎(ばかやろう)というのが癖(くせ)である。ほかに悪口(わるくち)の言(い)いようを知(し)らないのだから仕方(しかた)がないが、今(いま)まで辛棒(しんぼう)した人(ひと)の気(き)も知(し)らないで、無暗(むやみ)に馬鹿野郎(ばかやろう)呼(よば)わりは失敬(しっけい)だと思(おも)う。

夏目漱石の吾輩は猫である(2)の11ページ目の一文 平生吾輩が彼の背中へ乗る時に少しは好い顔でもするならこの漫罵も甘んじて受けるが、こっちの便利になる事は何一つ快くしてくれた事もないのに、小便に立ったのを馬鹿野郎とは酷い。

それも平生(へいぜい)吾輩(わがはい)が彼(かれ)の背中(せなか)へ乗(の)る時(とき)に少(すこ)しは好(よ)い顔(かお)でもするならこの漫罵(まんば)も甘(あま)んじて受(う)けるが、こっちの便利(べんり)になる事(こと)は何一(なにひと)つ快(こころよ)くしてくれた事(こと)もないのに、小便(しょうべん)に立(た)ったのを馬鹿野郎(ばかやろう)とは酷(ひど)い。元来(がんらい)人間(にんげん)というものは自己(じこ)の力量(りきりょう)に慢(まん)じてみんな増長(ぞうちょう)している。少(すこ)し人間(にんげん)より強(つよ)いものが出(で)て来(き)て窘(いじ)めてやらなくてはこの先(さき)どこまで増長(ぞうちょう)するか分(わか)らない。

*平生(へいぜい)とは  ごく普通の状態、状況の中で生活している時。

夏目漱石の吾輩は猫である(2)の12ページ目の一文 吾輩の家の裏に十坪ばかりの茶園がある。広くはないが瀟洒とした心持ち好く日の当る所だ。

 我儘(わがまま)もこのくらいなら我慢(がまん)するが吾輩(わがはい)は人間(にんげん)の不徳(ふとく)についてこれよりも数(すう)倍(ばい)悲(かな)しむべき報道(ほうどう)を耳(みみ)にした事(こと)がある。
 吾輩(わがはい)の家(いえ)の裏(うら)に十坪(つぼ)ばかりの茶園(ちゃえん)がある。広(ひろ)くはないが瀟洒(さっぱり)とした心持(こころも)ち好(す)く日(ひ)の当(あた)る所(ところ)だ。うちの小供(こども)があまり騒(さわ)いで楽々(らくらく)昼寝(ひるね)の出来(でき)ない時(とき)や、あまり退屈(たいくつ)で腹(はら)加減(かげん)のよくない折(おり)などは、吾輩(わがはい)はいつでもここへ出(で)て浩然(こうぜん)の気(き)を養(やしな)うのが例(れい)である。

*浩然とは 正気を浩然の気という。

夏目漱石の吾輩は猫である(2)の13ページ目の一文 ある小春の穏かな日の二時頃であったが、吾輩は昼飯後快よく一睡した後、運動かたがたこの茶園へと歩を運ばした。茶の木の根を一本一本嗅ぎながら、西側の杉垣のそばまでくると、枯菊を押し倒してその上に大きな猫が前後不覚に寝ている。

ある小春(こはる)の穏(おだやか)かな日(ひ)の二時(じ)頃(ごろ)であったが、吾輩(わがはい)は昼飯後(ちゅうはんご)快(こころよ)よく一睡(いっすい)した後(のち)、運動(うんどう)かたがたこの茶園(ちゃえん)へと歩(ほ)を運(はこ)ばした。茶(ちゃ)の木(き)の根(ね)を一本(いっぽん)一本(いっぽん)嗅(か)ぎながら、西側(にしがわ)の杉垣(すぎがき)のそばまでくると、枯(かれ)菊(ぎく)を押(お)し倒(たお)してその上(うえ)に大(おお)きな猫(ねこ)が前後不覚(ぜんごふかく)に寝(ね)ている。彼(かれ)は吾輩(わがはい)の近(ちか)づくのも一向(いっこう)心付(こころづ)かざるごとく、また心付(こころづ)くも無頓着(むとんちゃく)なるごとく、大(おお)きな鼾(いびき)をして長々(ながなが)と体(からだ)を横(よこた)えて眠(ねむ)っている。

夏目漱石の吾輩は猫である(2)の14ページ目の一文 きらきらする柔毛の間より眼に見えぬ炎でも燃え出ずるように思われた。彼は猫中の大王とも云うべきほどの偉大なる体格を有している。吾輩の倍はたしかにある。

他(ひと)の庭内(ていない)に忍(しの)び入(い)りたるものがかくまで平気(へいき)に睡(ねむ)られるものかと、吾輩(わがはい)は窃(ひそ)かにその大胆(だいたん)なる度胸(どきょう)に驚(おどろ)かざるを得(え)なかった。彼(かれ)は純粋(じゅんすい)の黒猫(くろねこ)である。わずかに午(ご)を過(す)ぎたる太陽(たいよう)は、透明(とうめい)なる光線(こうせん)を彼(かれ)の皮膚(ひふ)の上(うえ)に抛(な)げかけて、きらきらする柔毛(にこげ)の間(あいだ)より眼(め)に見(み)えぬ炎(ほのお)でも燃(も)え出(い)ずるように思(おも)われた。彼(かれ)は猫(ねこ)中(ちゅう)の大王(だいおう)とも云(い)うべきほどの偉大(いだい)なる体格(たいかく)を有(ゆう)している。吾輩(わがはい)の倍(ばい)はたしかにある。

夏目漱石の吾輩は猫である(2)の15ページ目の一文 大王はかっとその真丸の眼を開いた。今でも記憶している。その眼は人間の珍重する琥珀というものよりも遥かに美しく輝いていた。

吾輩(わがはい)は嘆賞(たんしょう)の念(ねん)と、好奇(こうき)の心(こころ)に前後(ぜんご)を忘(わす)れて彼(かれ)の前(まえ)に佇立(ちょりつ)して余念(よねん)もなく眺(なが)めていると、静(しず)かなる小春(こはる)の風(かぜ)が、杉垣(すぎがき)の上(うえ)から出(で)たる梧桐(ごとう)の枝(えだ)を軽(かろ)く誘(さそ)ってばらばらと二三枚(まい)の葉(は)が枯(かれ)菊(ぎく)の茂(しげ)みに落(お)ちた。大王(だいおう)はかっとその真丸(まんまる)の眼(め)を開(ひら)いた。今(いま)でも記憶(きおく)している。その眼(め)は人間(にんげん)の珍重(ちんちょう)する琥珀(こはく)というものよりも遥(はる)かに美(うつく)しく輝(かがや)いていた。彼(かれ)は身動(みうご)きもしない。

*嘆賞(たんしょう)とは 感心してほめたたえること
*佇立(ちょりつ)とは たたずむこと。
*梧桐(ごとう)とは 植物「あおぎり(青桐)」。
*琥珀(こはく)とは 地質時代の樹脂類が地中に埋没して石化したもの。おおむね黄色を帯び、透明または半透明。

夏目漱石の吾輩は猫である(2)の16ページ目の一文 双眸の奥から射るごとき光を吾輩の矮小なる額の上にあつめて、御めえは一体何だと云った。大王にしては少々言葉が卑しいと思ったが何しろその声の底に犬をも挫しぐべき力が籠っているので吾輩は少なからず恐れを抱いた。

双眸(そうぼう)の奥(おく)から射(い)るごとき光(ひかり)を吾輩(わがはい)の矮小(わいしょう)なる額(ひたい)の上(うえ)にあつめて、 御(お)めえ は一体(いったい)何(なに)だと云(い)った。大王(だいおう)にしては少々(しょうしょう)言葉(ことば)が卑(いや)しいと思(おも)ったが何(なに)しろその声(こえ)の底(そこ)に犬(いぬ)をも挫(ひ)しぐべき力(ちから)が籠(こも)っているので吾輩(わがはい)は少(すく)なからず恐(おそ)れを抱(いだ)いた。しかし挨拶(あいさつ)をしないと険呑(けんのん)だと思(おも)ったから「吾輩(わがはい)は猫(ねこ)である。名前(なまえ)はまだない」となるべく平気(へいき)を装(よそお)って冷然(れいぜん)と答(こた)えた。しかしこの時(とき)吾輩(わがはい)の心臓(しんぞう)はたしかに平時(へいじ)よりも烈(はげ)しく鼓動(こどう)しておった。

*双眸(そうぼう)とは 両方のひとみ。両眼。
*矮小(わいしょう)とは 丈が低く形の小さいこと。転じて、こぢんまりしていること。
*険呑とは 危険だと思うさま。また、どうなることかと不安であるさま。

夏目漱石の吾輩は猫である(2)の17ページ目の一文 大王だけに気焔を吹きかける。言葉付から察するとどうも良家の猫とも思われない。しかしその膏切って肥満しているところを見ると御馳走を食ってるらしい、豊かに暮しているらしい。

彼(かれ)は大(おおい)に軽蔑(けいべつ)せる調子(ちょうし)で「何(なに)、猫(ねこ)だ? 猫(ねこ)が聞(き)いてあきれらあ。全(ぜん)てえどこに住(す)んでるんだ」随分(ずいぶん)傍若無人(ぼうじゃくぶじん)である。「吾輩(わがはい)はここの教師(きょうし)の家(うち)にいるのだ」「どうせそんな事(こと)だろうと思(おも)った。いやに瘠(や)せてるじゃねえか」と大王(だいおう)だけに気焔(きえん)を吹(ふ)きかける。言葉付(ことばつき)から察(さっ)するとどうも良家(りょうけ)の猫(ねこ)とも思(おも)われない。しかしその膏(あぶら)切(あぶらぎ)って肥満(ひまん)しているところを見(み)ると御馳走(ごちそう)を食(く)ってるらしい、豊(ゆた)かに暮(くら)しているらしい。

*傍若無人(ぼうじゃくぶじん)とは 人前をはばからず勝手気ままな言動をすること。
*気焔(きえん)とは 人前をはばからず勝手気ままな言動をすること。

夏目漱石の吾輩は猫である(2)の18ページ目の一文 「己れあ車屋の黒よ」昂然たるものだ。車屋の黒はこの近辺で知らぬ者なき乱暴猫である。しかし車屋だけに強いばかりでちっとも教育がないからあまり誰も交際しない。

吾輩(わがはい)は「そう云(い)う君(きみ)は一体(いったい)誰(だれ)だい」と聞(き)かざるを得(え)なかった。「己(お)れあ車屋(くるまや)の黒(くろ)よ」昂然(こうぜん)たるものだ。車屋(くるまや)の黒(くろ)はこの近辺(きんぺん)で知(し)らぬ者(もの)なき乱暴(らんぼう)猫(ねこ)である。しかし車屋(くるまや)だけに強(つよ)いばかりでちっとも教育(きょういく)がないからあまり誰(だれ)も交際(こうさい)しない。同盟(どうめい)敬遠(けいえん)主義(しゅぎ)の的(まと)になっている奴(やつ)だ。吾輩(わがはい)は彼(かれ)の名(な)を聞(き)いて少々(しょうしょう)尻(しり)こそばゆき感(かん)じを起(おこ)すと同時(どうじ)に、一方(いっぽう)では少々(しょうしょう)軽侮(けいぶ)の念(ねん)も生(しょう)じたのである。

*昂然とは 意気の盛んなさま。自信に満ちて誇らしげなさま。
*軽侮(けいぶ)とは 相手をかるく見てあなどること。軽蔑(けいべつ)。

夏目漱石の吾輩は猫である(2)の19ページ目の一文 吾輩はまず彼がどのくらい無学であるかを試してみようと思って左の問答をして見た。「一体車屋と教師とはどっちがえらいだろう」

吾輩(わがはい)はまず彼(かれ)がどのくらい無学(むがく)であるかを試(ため)してみようと思(おも)って左(さ)の問答(もんどう)をして見(み)た。 「一体(いったい)車屋(くるまや)と教師(きょうし)とはどっちがえらいだろう」 「車屋(くるまや)の方(ほう)が強(つよ)いに極(きま)っていらあな。 御(お)めえ の うちの主人(しゅじん)を見(み)ねえ、まるで骨(ほね)と皮(かわ)ばかりだぜ」 「君(きみ)も車屋(くるまや)の猫(ねこ)だけに大分(だいぶ)強(つよ)そうだ。車屋(くるまや)にいると御馳走(ごちそう)が食(く)えると見(み)えるね」 「何(なあ)に おれ なんざ、どこの国(くに)へ行(い)ったって食(く)い物(もの)に不自由(ふじゆう)はしねえつもりだ。

夏目漱石の吾輩は猫である(2)の20ページ目の一文 御めえなんかも茶畠ばかりぐるぐる廻っていねえで、ちっと己の後へくっ付いて来て見ねえ。一と月とたたねえうちに見違えるように太れるぜ

 御(お)めえ なんかも茶畠(ちゃばたけ)ばかりぐるぐる廻(まわ)っていねえで、ちっと己(おれ)の後(あと)へくっ付(つ)いて来(き)て見(み)ねえ。一と月(つき)とたたねえうちに見違(みちが)えるように太(ふと)れるぜ」 「追(お)ってそう願(ねが)う事(こと)にしよう。しかし家(うち)は教師(きょうし)の方(ほう)が車屋(くるまや)より大(おお)きいのに住(す)んでいるように思(おも)われる」 「箆棒(べらぼう)め、うちなんかいくら大(おお)きくたって腹(はら)の足(た)しになるもんか」
 彼(かれ)は大(おおい)に肝癪(かんしゃく)に障(さわ)った様子(ようす)で、寒竹(かんちく)をそいだような耳(みみ)をしきりとぴく付(つ)かせてあららかに立(た)ち去(さ)った。

*箆棒(べらぼう)とは  人をののしっていう語。たわけ。ばか。
*肝癪(かんしゃく)とは ちょっとしたことにでも激怒しやすい性質。怒りやすい性質。
*寒竹(かんちく)とは  冬の竹。寒いときの竹。

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吾輩は猫である

吾輩は猫である』(わがはいはねこである)は、夏目漱石の長編小説であり、処女小説である。
1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』にて発表されたのだが、好評を博したため、翌1906年(明治39年)8月まで継続した。 上、1906年10月刊、中、1906年11月刊、下、1907年5月刊。
「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。」という書き出しで始まり、中学校の英語教師である珍野苦沙弥の家に飼われている猫である「吾輩」の視点から、珍野一家や、そこに集う彼の友人や門下の書生たち、「太平の逸民」(第二話、第三話)の人間模様が風刺的・戯作的に描かれている。
着想は、E.T.A.ホフマンの長編小説『牡猫ムルの人生観』だと考えられている。 また『吾輩は猫である』の構成は、『トリストラム・シャンディ』の影響とも考えられている。

あらすじ

吾輩は猫である 第一章(2)
「吾輩」の最初の記憶は、「薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた」ことである。出生の場所は当人の記憶にはない(とんと見当がつかぬ)。その後まもなく書生に拾われ、書生が顔の真ん中から煙を吹いていたものがタバコであることをのちに知る。書生の掌の上で運ばれ(移動には何を利用したかは不明)、笹原に我輩だけ遺棄される。その後大きな池の前~何となく人間臭い所~竹垣の崩くずれた穴から、とある邸内に入り込み、下女につまみ出されそうになったところを教師(苦沙弥先生)に拾われ、住み込む。
人間については飼い主の言動によりわがままであること、また車屋の黒によると、不人情で泥棒も働く不徳者であると判断する。

登場人物

吾輩(主人公の猫)
珍野家で飼われている雄猫。本編の語り手。「吾輩」は一人称であり、彼自身に名前はない。人間の生態を鋭く観察したり、猫ながら古今東西の文芸に通じており哲学的な思索にふけったりする。人間の内心を読むこともできる。

珍野 苦沙弥(ちんの くしゃみ)
猫「吾輩」の飼い主で、文明中学校の英語教師。妻と3人の娘がいる。偏屈な性格で、胃が弱く、ノイローゼ気味である(漱石自身がモデルとされる)。あばた面で、くちひげをたくわえる。その顔は今戸焼のタヌキとも評される。頭髪は長さ二寸くらい、左で分け、右端をちょっとはね返らせる。吸うタバコは朝日。酒は、元来飲めず、平生なら猪口で2杯。なお胃弱で健康に気を遣うあまり、毎食後にはタカジアスターゼを飲み、また時には鍼灸術を受け悲鳴を上げたり按腹もみ療治を受け悶絶したりとかなりの苦労人でもある。

車屋の黒
大柄な雄の黒猫。べらんめえ調で教養がなく、大変な乱暴者なので「吾輩」は恐れている。

迷亭(めいてい)
苦沙弥の友人の美学者。ホラ話で人をかついで楽しむのが趣味の粋人。近眼で、金縁眼鏡を装用し、金唐皮の烟草入を使用する。 美学者大塚保治がモデルともいわれるが漱石は否定したという。また、漱石の妻鏡子の著書『漱石の思ひ出』には、漱石自身が自らの洒落好きな性格を一人歩きさせたのではないかとする内容の記述がある。

御三(おさん)
珍野家の下女。名は清という。主人公の猫「吾輩」を好いていない。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』吾輩は猫である 

夏目漱石

夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日〈慶応3年1月5日〉 - 1916年〈大正5年〉12月9日)は、日本の教師・小説家・評論家・英文学者・俳人。本名は夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。
俳号は愚陀仏。明治末期から大正初期にかけて活躍し、今日通用する言文一致の現代書き言葉を作った近代日本文学の文豪の一人。
代表作は『吾輩は猫である』『吾輩は猫である』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』など。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』夏目漱石

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