らくらく読書 夏目漱石 吾輩は猫である 第一章(1) タイトルバナー

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夏目漱石の吾輩は猫である 第一章(1)の1ページ目の一文 吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。

 吾輩(わがはい)は猫(ねこ)である。名前(なまえ)はまだ無(な)い。
 どこで生(うま)れたかとんと見当(けんとう)がつかぬ。何(なん)でも薄暗(うすぐら)いじめじめした所(ところ)でニャーニャー泣(な)いていた事(こと)だけは記憶(きおく)している。吾輩(わがはい)はここで始(はじ)めて人間(にんげん)というものを見(み)た。しかもあとで聞(き)くとそれは書生(しょせい)という人間(にんげん)中(じゅう)で一番(いちばん)獰悪(どうあく)な種族(しゅぞく)であったそうだ。この書生(しょせい)というのは時々(ときどき)我々(われわれ)を捕(つかま)えて煮(に)て食(く)うという話(はなし)である。
*書生とは 他人の家に世話になって家事を手伝いながら勉学する者。

夏目漱石の吾輩は猫である 第一章(1)の2ページ目の一文 掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始であろう。

しかしその当時(とうじ)は何(なん)という考(かんがえ)もなかったから別段(べつだん)恐(こわ)しいとも思(おも)わなかった。ただ彼(かれ)の掌(てのひら)に載(の)せられてスーと持(も)ち上(あ)げられた時(とき)何(なん)だかフワフワした感(かん)じがあったばかりである。掌(てのひら)の上(うえ)で少(すこ)し落(お)ちついて書生(しょせい)の顔(かお)を見(み)たのがいわゆる人間(にんげん)というものの見始(みはじめ)であろう。この時(とき)妙(みょう)なものだと思(おも)った感(かん)じが今(いま)でも残(のこ)っている。第(だい)一毛(け)をもって装飾(そうしょく)されべきはずの顔(かお)がつるつるしてまるで薬缶(やかん)だ。その後(ご)猫(ねこ)にもだいぶ逢(あ)ったがこんな片輪(かたわ)には一度(いちど)も出会(でく)わした事(こと)がない。

夏目漱石の吾輩は猫である 第一章(1)の3ページ目の一文 この書生の掌の裏でしばらくはよい心持に坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。書生が動くのか自分だけが動くのか分らないが無暗に眼が廻る。

のみならず顔(かお)の真中(まんなか)があまりに突起(とっき)している。そうしてその穴(あな)の中(なか)から時々(ときどき)ぷうぷうと煙(けむり)を吹(ふ)く。どうも咽(む)せぽくて実(じつ)に弱(よわ)った。これが人間(にんげん)の飲(の)む煙草(たばこ)というものである事(こと)はようやくこの頃(ころ)知(し)った。
 この書生(しょせい)の掌(てのひら)の裏(うち)でしばらくはよい心持(こころもち)に坐(すわ)っておったが、しばらくすると非常(ひじょう)な速力(そくりょく)で運転(うんてん)し始(はじ)めた。書生(しょせい)が動(うご)くのか自分(じぶん)だけが動(うご)くのか分(わか)らないが無暗(むやみ)に眼(め)が廻(まわ)る。胸(むね)が悪(わる)くなる。到底(とうてい)助(たす)からないと思(おも)っていると、どさりと音(おと)がして眼(め)から火(ひ)が出(で)た。

夏目漱石の吾輩は猫である 第一章(1)の4ページ目の一文 はてな何でも容子がおかしいと、のそのそ這い出して見ると非常に痛い。吾輩は藁の上から急に笹原の中へ棄てられたのである。

それまでは記憶(きおく)しているがあとは何(なに)の事(こと)やらいくら考(かんが)え出(だ)そうとしても分(わか)らない。
 ふと気(き)が付(つ)いて見(み)ると書生(しょせい)はいない。たくさんおった兄弟(きょうだい)が一疋(ぴき)も見(み)えぬ。肝心(かんじん)の母親(ははおや)さえ姿(すがた)を隠(かく)してしまった。その上(うえ)今(いま)までの所(ところ)とは違(ちが)って無暗(むやみ)に明(あか)るい。眼(め)を明(あ)いていられぬくらいだ。はてな何(なん)でも容子(ようす)がおかしいと、のそのそ這(は)い出(だ)して見(み)ると非常(ひじょう)に痛(いた)い。吾輩(わがはい)は藁(わら)の上(うえ)から急(きゅう)に笹原(ささはら)の中(なか)へ棄(す)てられたのである。

夏目漱石の吾輩は猫である 第一章(1)の5ページ目の一文 吾輩は池の前に坐ってどうしたらよかろうと考えて見た。別にこれという分別も出ない。しばらくして泣いたら書生がまた迎に来てくれるかと考え付いた。ニャー、ニャーと試みにやって見たが誰も来ない。

 ようやくの思(おも)いで笹原(ささはら)を這(は)い出(だ)すと向(むこ)うに大(おお)きな池(いけ)がある。吾輩(わがはい)は池(いけ)の前(まえ)に坐(すわ)ってどうしたらよかろうと考(かんが)えて見(み)た。別(べつ)にこれという分別(ふんべつ)も出(で)ない。しばらくして泣(な)いたら書生(しょせい)がまた迎(むかえ)に来(き)てくれるかと考(かんが)え付(つ)いた。ニャー、ニャーと試(こころ)みにやって見(み)たが誰(だれ)も来(こ)ない。そのうち池(いけ)の上(うえ)をさらさらと風(かぜ)が渡(わた)って日(ひ)が暮(く)れかかる。腹(はら)が非常(ひじょう)に減(へ)って来(き)た。泣(な)きたくても声(こえ)が出(で)ない。

夏目漱石の吾輩は猫である 第一章(1)の6ページ目の一文 仕方がない、何でもよいから食物のある所まであるこうと決心をしてそろりそろりと池を左りに廻り始めた。

仕方(しかた)がない、何(なん)でもよいから食物(くいもの)のある所(ところ)まであるこうと決心(けっしん)をしてそろりそろりと池(いけ)を左(ひだ)りに廻(まわ)り始(はじ)めた。どうも非常(ひじょう)に苦(くる)しい。そこを我慢(がまん)して無理(むり)やりに這(は)って行(い)くとようやくの事(こと)で何(なん)となく人間臭(にんげんくさ)い所(ところ)へ出(で)た。ここへ這入(はい)ったら、どうにかなると思(おも)って竹垣(たけがき)の崩(くず)れた穴(あな)から、とある邸内(ていない)にもぐり込(こ)んだ。縁(えん)は不思議(ふしぎ)なもので、もしこの竹垣(たけがき)が破(やぶ)れていなかったなら、吾輩(わがはい)はついに路傍(ろぼう)に餓死(がし)したかも知(し)れんのである。一樹(いちじゅ)の蔭(かげ)とはよく云(い)ったものだ。

夏目漱石の吾輩は猫である 第一章(1)の7ページ目の一文 この垣根の穴は今日に至るまで吾輩が隣家の三毛を訪問する時の通路になっている。さて邸へは忍び込んだもののこれから先どうして善いか分らない。

この垣根(かきね)の穴(あな)は今日(こんにち)に至(いた)るまで吾輩(わがはい)が隣家(となり)の三毛(みけ)を訪問(ほうもん)する時(とき)の通路(つうろ)になっている。さて邸(やしき)へは忍(しの)び込(こ)んだもののこれから先(さき)どうして善(い)いか分(わか)らない。そのうちに暗(くら)くなる、腹(はら)は減(へ)る、寒(さむ)さは寒(さむ)し、雨(あめ)が降(ふ)って来(く)るという始末(しまつ)でもう一刻(いっこく)の猶予(ゆうよ)が出来(でき)なくなった。仕方(しかた)がないからとにかく明(あか)るくて暖(あたた)かそうな方(ほう)へ方(ほう)へとあるいて行(い)く。今(いま)から考(かんが)えるとその時(とき)はすでに家(いえ)の内(うち)に這入(はい)っておったのだ。

夏目漱石の吾輩は猫である 第一章(1)の8ページ目の一文 ここで吾輩は彼の書生以外の人間を再び見るべき機会に遭遇したのである。第一に逢ったのがおさんである。

ここで吾輩(わがはい)は彼(か)の書生(しょせい)以外(いがい)の人間(にんげん)を再(ふたた)び見(み)るべき機会(きかい)に遭遇(そうぐう)したのである。第一(だいいち)に逢(あ)ったのがおさんである。これは前(まえ)の書生(しょせい)より一層(いっそう)乱暴(らんぼう)な方(ほう)で吾輩(わがはい)を見(み)るや否(いな)やいきなり頸筋(くびすじ)をつかんで表(ひょう)へ抛(ほう)り出(だ)した。いやこれは駄目(だめ)だと思(おも)ったから眼(め)をねぶって運(うん)を天(てん)に任(まか)せていた。しかしひもじいのと寒(さむ)いのにはどうしても我慢(がまん)が出来(でき)ん。吾輩(わがはい)は再(ふたた)びおさんの隙(すき)を見(み)て台所(だいどころ)へ這(は)い上(あが)った。すると間(ま)もなくまた投(な)げ出(だ)された。

夏目漱石の吾輩は猫である 第一章(1)の9ページ目の一文 おさんと云う者はつくづくいやになった。この間おさんの三馬(さんま)を偸んでこの返報をしてやってから、やっと胸の痞が下りた。

吾輩(わがはい)は投(な)げ出(だ)されては這(は)い上(あが)り、這(は)い上(あが)っては投(な)げ出(だ)され、何(なん)でも同(おな)じ事(こと)を四五遍(へん)繰(く)り返(かえ)したのを記憶(きおく)している。その時(とき)におさんと云(い)う者(もの)はつくづくいやになった。この間(あいだ)おさんの三馬(さんま)を偸(ぬす)んでこの返報(へんぽう)をしてやってから、やっと胸(むね)の痞(つかえ)が下(お)りた。吾輩(わがはい)が最後(さいご)につまみ出(だ)されようとしたときに、この家(うち)の主人(しゅじん)が騒々(そうぞう)しい何(なに)だといいながら出(で)て来(き)た。

夏目漱石の吾輩は猫である 第一章(1)の10ページ目の一文 下女は吾輩をぶら下げて主人の方へ向けてこの宿なしの小猫がいくら出しても出しても御台所へ上って来て困りますという。

下女(げじょ)は吾輩(わがはい)をぶら下(さ)げて主人(しゅじん)の方(ほう)へ向(む)けてこの宿(やど)なしの小猫(こねこ)がいくら出(だ)しても出(だ)しても御台所(おだいどころ)へ上(あが)って来(き)て困(こま)りますという。主人(しゅじん)は鼻(はな)の下(した)の黒(くろ)い毛(け)を撚(ひね)りながら吾輩(わがはい)の顔(かお)をしばらく眺(なが)めておったが、やがてそんなら内(うち)へ置(お)いてやれといったまま奥(おく)へ這入(はい)ってしまった。主人(しゅじん)はあまり口(くち)を聞(き)かぬ人(ひと)と見(み)えた。下女(げじょ)は口(くち)惜(くや)しそうに吾輩(わがはい)を台所(だいどころ)へ抛(ほう)り出(だ)した。かくして吾輩(わがはい)はついにこの家(うち)を自分(じぶん)の住家(すみか)と極(き)める事(こと)にしたのである。

夏目漱石の吾輩は猫である 第一章(1)の11ページ目の一文 吾輩の主人は滅多に吾輩と顔を合せる事がない。職業は教師だそうだ。学校から帰ると終日書斎に這入ったぎりほとんど出て来る事がない。

 吾輩(わがはい)の主人(しゅじん)は滅多(めった)に吾輩(わがはい)と顔(かお)を合(あわ)せる事(こと)がない。職業(しょくぎょう)は教師(きょうし)だそうだ。学校(がっこう)から帰(かえ)ると終日(しゅうじつ)書斎(しょさい)に這入(はい)ったぎりほとんど出(で)て来(く)る事(こと)がない。家(いえ)のものは大変(たいへん)な勉強家(べんきょうか)だと思(おも)っている。当人(とうにん)も勉強家(べんきょうか)であるかのごとく見(み)せている。しかし実際(じっさい)はうちのものがいうような勤勉家(きんべんか)ではない。吾輩(わがはい)は時々(ときどき)忍(しの)び足(あし)に彼(かれ)の書斎(しょさい)を覗(のぞ)いて見(み)るが、彼(かれ)はよく昼寝(ひるね)をしている事(こと)がある。時々(ときどき)読(よ)みかけてある本(ほん)の上(うえ)に涎(よだれ)をたらしている。

夏目漱石の吾輩は猫である 第一章(1)の12ページ目の一文 大飯を食った後でタカジヤスターゼを飲む。飲んだ後で書物をひろげる。二三ページ読むと眠くなる。涎を本の上へ垂らす。これが彼の毎夜繰り返す日課である。

彼(かれ)は胃弱(いじゃく)で皮膚(ひふ)の色(いろ)が淡黄色(たんこうしょく)を帯(お)びて弾力(だんりょく)のない不(ふ)活溌(ふかっぱつ)な徴候(ちょうこう)をあらわしている。その癖(くせ)に大飯(おおめし)を食(く)う。大飯(おおめし)を食(く)った後(あと)でタカジヤスターゼを飲(の)む。飲(の)んだ後(あと)で書物(しょもつ)をひろげる。二三ページ読(よ)むと眠(ねむ)くなる。涎(よだれ)を本(ほん)の上(うえ)へ垂(た)らす。これが彼(かれ)の毎夜(まいよ)繰(く)り返(かえ)す日課(にっか)である。吾輩(わがはい)は猫(ねこ)ながら時々(ときどき)考(かんが)える事(こと)がある。教師(きょうし)というものは実(じつ)に楽(らく)なものだ。人間(にんげん)と生(うま)れたら教師(きょうし)となるに限(かぎ)る。こんなに寝(ね)ていて勤(つと)まるものなら猫(ねこ)にでも出来(でき)ぬ事(こと)はないと。

夏目漱石の吾輩は猫である 第一章(1)の13ページ目の一文 いかに珍重されなかったかは、今日に至るまで名前さえつけてくれないのでも分る。吾輩は仕方がないから、出来得る限り吾輩を入れてくれた主人の傍にいる事をつとめた。

それでも主人(しゅじん)に云(い)わせると教師(きょうし)ほどつらいものはないそうで彼(かれ)は友達(ともだち)が来(く)る度(たび)に何(なん)とかかんとか不平(ふへい)を鳴(な)らしている。
 吾輩(わがはい)がこの家(いえ)へ住(す)み込(こ)んだ当時(とうじ)は、主人(しゅじん)以外(いがい)のものにははなはだ不(ふ)人望(じんぼう)であった。どこへ行(い)っても跳(は)ね付(つ)けられて相手(あいて)にしてくれ手(て)がなかった。いかに珍重(ちんちょう)されなかったかは、今日(こんにち)に至(いた)るまで名前(なまえ)さえつけてくれないのでも分(わか)る。吾輩(わがはい)は仕方(しかた)がないから、出来得(できう)る限(かぎ)り吾輩(わがはい)を入(い)れてくれた主人(しゅじん)の傍(そば)にいる事(こと)をつとめた。

夏目漱石の吾輩は猫である 第一章(1)の14ページ目の一文 朝は飯櫃の上、夜は炬燵の上、天気のよい昼は椽側へ寝る事とした。しかし一番心持の好いのは夜に入ってここのうちの小供の寝床へもぐり込んでいっしょにねる事である。

朝(あさ)主人(しゅじん)が新聞(しんぶん)を読(よ)むときは必(かなら)ず彼(かれ)の膝(ひざ)の上(うえ)に乗(の)る。彼(かれ)が昼寝(ひるね)をするときは必(かなら)ずその背中(せなか)に乗(の)る。これはあながち主人(しゅじん)が好(す)きという訳(わけ)ではないが別(べつ)に構(かま)い手(て)がなかったからやむを得(え)んのである。その後(あと)いろいろ経験(けいけん)の上(うえ)、朝(あさ)は飯櫃(めしびつ)の上(うえ)、夜(よる)は炬燵(こたつ)の上(うえ)、天気(てんき)のよい昼(ひる)は椽側(えんがわ)へ寝(ね)る事(こと)とした。しかし一番(いちばん)心持(こころもち)の好(よ)いのは夜(よ)に入(い)ってここのうちの小供(こども)の寝床(ねどこ)へもぐり込(こ)んでいっしょにねる事(こと)である。

夏目漱石の吾輩は猫である 第一章(1)の15ページ目の一文 この小供というのは五つと三つで夜になると二人が一つ床へ入って一間へ寝る。吾輩はいつでも彼等の中間に己れを容るべき余地を見出してどうにか、こうにか割り込むのであるが、運悪く小供の一人が眼を醒ますが最後大変な事になる。

この小供(こども)というのは五(いつ)つと三(みっ)つで夜(よる)になると二人(ふたり)が一(ひと)つ床(ゆか)へ入(はい)って一間(ひとま)へ寝(ね)る。吾輩(わがはい)はいつでも彼等(かれら)の中間(ちゅうかん)に己(おの)れを容(い)るべき余地(よち)を見出(みいだ)してどうにか、こうにか割(わ)り込(こ)むのであるが、運悪(うんわる)く小供(こども)の一人(ひとり)が眼(め)を醒(さ)ますが最後(さいご)大変(たいへん)な事(こと)になる。小供(こども)は――ことに小(ちい)さい方(ほう)が質(たち)がわるい――猫(ねこ)が来(き)た猫(ねこ)が来(き)たといって夜中(よなか)でも何(なん)でも大(おお)きな声(こえ)で泣(な)き出(だ)すのである。すると例(れい)の神経(しんけい)胃弱(いじゃく)性(せい)の主人(かなら)ず眼(め)をさまして次(つぎ)の部屋(へや)から飛(と)び出(だ)してくる。

夏目漱石の吾輩は猫である 第一章(1)の16ページ目の一文 吾輩は人間と同居して彼等を観察すればするほど、彼等は我儘なものだと断言せざるを得ないようになった。

現(げん)にせんだってなどは物指(ものさし)で尻(しり)ぺたをひどく叩(たた)かれた。
 吾輩(わがはい)は人間(にんげん)と同居(どうきょ)して彼等(かれら)を観察(かんさつ)すればするほど、彼等(かれら)は我儘(わがまま)なものだと断言(だんげん)せざるを得(え)ないようになった。ことに吾輩(わがはい)が時々(ときどき)同衾(どうきん)する小供(こども)のごときに至(いた)っては言語同断(ごんごどうだん)である。自分(じぶん)の勝手(かって)な時(とき)は人(ひと)を逆(さか)さにしたり、頭(あたま)へ袋(ふくろ)をかぶせたり、抛(ほう)り出(だ)したり、 へっつい の中(なか)へ押(お)し込(こ)んだりする。

夏目漱石の吾輩は猫である 第一章(1)の17ページ目の一文 この間もちょっと畳で爪を磨いだら細君が非常に怒ってそれから容易に座敷へ入れない。台所の板の間で他(ひと)が顫えていても一向平気なものである。

しかも吾輩(わがはい)の方(ほう)で少(すこ)しでも手出(てだ)しをしようものなら家内(かない)総(そう)がかりで追(お)い廻(まわ)して迫(さこ)害(がい)を加(くわ)える。この間(あいだ)もちょっと畳(たたみ)で爪(つめ)を磨(と)いだら細君(さいくん)が非常(ひじょう)に怒(おこ)ってそれから容易(ようい)に座敷(ざしき)へ入(い)れない。台所(だいどころ)の板(いた)の間(ま)で他(ひと)が顫(ふる)えていても一向(いっこう)平気(へいき)なものである。吾輩(わがはい)の尊敬(そんけい)する筋向(すじむこう)の白(しろ)君(きみ)などは逢(あ)う度(たび)毎(たびごと)に人間(にんげん)ほど不人情(ふにんじょう)なものはないと言(い)っておらるる。白(しろ)君(きみ)は先日(せんじつ)玉(たま)のような子猫(こねこ)を四疋(ひき)産(う)まれたのである。

夏目漱石の吾輩は猫である 第一章(1)の18ページ目の一文 また隣りの三毛君などは人間が所有権という事を解していないといって大に憤慨している。

ところがそこの家(うち)の書生(しょせい)が三日(にち)目(め)にそいつを裏(うら)の池(いけ)へ持(も)って行(い)って四疋(ひき)ながら棄(す)てて来(き)たそうだ。白君(しろくん)は涙(なみだ)を流(なが)してその一部始終(いちぶしじゅう)を話(はな)した上(うえ)、どうしても我等(われら)猫(ねこ)族(ねこぞく)が親子(おやこ)の愛(あい)を完(まった)くして美(うつく)しい家族的(かぞくてき)生活(せいかつ)をするには人間(にんげん)と戦(たたか)ってこれを剿滅(そうめつ)せねばならぬといわれた。一々(いちいち)もっともの議論(ぎろん)と思(おも)う。また隣(とな)りの三毛(みけ)君(くん)などは人間(にんげん)が所有権(しょゆうけん)という事(こと)を解(かい)していないといって大(おおい)に憤慨(ふんがい)している。

夏目漱石の吾輩は猫である 第一章(1)の19ページ目の一文 元来我々同族間では目刺の頭でも鰡の臍でも一番先に見付けたものがこれを食う権利があるものとなっている。

元来(がんらい)我々(われわれ)同族(どうぞく)間(かん)では目刺(めざし)の頭(あたま)でも鰡(ぼら)の臍(へそ)でも一番(いちばん)先(さき)に見付(みつ)けたものがこれを食(く)う権利(けんり)があるものとなっている。もし相手(あいて)がこの規約(きやく)を守(まも)らなければ腕力(わんりょく)に訴(うった)えて善(よ)いくらいのものだ。しかるに彼等(かれら)人間(にんげん)は毫(ごう)もこの観念(かんねん)がないと見(み)えて我等(われら)が見付(みつ)けた御馳走(ごちそう)は必(かなら)ず彼等(かれら)のために掠奪(りゃくだつ)せらるるのである。彼等(かれら)はその強力(きょうりょく)を頼(たの)んで正当(せいとう)に吾人(ごじん)が食(く)い得(え)べきものを奪(うば)ってすましている。白君(しろくん)は軍人(ぐんじん)の家(うち)におり三毛(みけ)君(くん)は代言(だいげん)の主人(しゅじん)を持(も)っている。

*代言とは 弁護士の旧称。法廷などで依頼人に代わって、その言い分を述べること。

夏目漱石の吾輩は猫である 第一章(1)の20ページ目の一文 吾輩は教師の家に住んでいるだけ、こんな事に関すると両君よりもむしろ楽天である。ただその日その日がどうにかこうにか送られればよい。いくら人間だって、そういつまでも栄える事もあるまい。まあ気を永く猫の時節を待つがよかろう。

吾輩(わがはい)は教師(きょうし)の家(いえ)に住(す)んでいるだけ、こんな事(こと)に関(かん)すると両君(りょうくん)よりもむしろ楽天(らくてん)である。ただその日(ひ)その日(ひ)がどうにかこうにか送(おく)られればよい。いくら人間(にんげん)だって、そういつまでも栄(さか)える事(こと)もあるまい。まあ気(き)を永(なが)く猫(ねこ)の時節(じせつ)を待(ま)つがよかろう。
 我儘(わがまま)で思(おも)い出(だ)したからちょっと吾輩(わがはい)の家(いえ)の主人(しゅじん)がこの我儘(わがまま)で失敗(しっぱい)した話(はなし)をしよう。元来(がんらい)この主人(しゅじん)は何(なん)といって人(ひと)に勝(すぐ)れて出来(でき)る事(こと)もないが、何(なに)にでもよく手(て)を出(だ)したがる。

この続きは 吾輩は猫である 第一章(2) 夏目 漱石でご覧いただけます。

吾輩は猫である

吾輩は猫である』(わがはいはねこである)は、夏目漱石の長編小説であり、処女小説である。
1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』にて発表されたのだが、好評を博したため、翌1906年(明治39年)8月まで継続した。 上、1906年10月刊、中、1906年11月刊、下、1907年5月刊。
「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。」という書き出しで始まり、中学校の英語教師である珍野苦沙弥の家に飼われている猫である「吾輩」の視点から、珍野一家や、そこに集う彼の友人や門下の書生たち、「太平の逸民」(第二話、第三話)の人間模様が風刺的・戯作的に描かれている。
着想は、E.T.A.ホフマンの長編小説『牡猫ムルの人生観』だと考えられている。 また『吾輩は猫である』の構成は、『トリストラム・シャンディ』の影響とも考えられている。

あらすじ

吾輩は猫である 第一章(1)
「吾輩」の最初の記憶は、「薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた」ことである。出生の場所は当人の記憶にはない(とんと見当がつかぬ)。その後まもなく書生に拾われ、書生が顔の真ん中から煙を吹いていたものがタバコであることをのちに知る。書生の掌の上で運ばれ(移動には何を利用したかは不明)、笹原に我輩だけ遺棄される。その後大きな池の前~何となく人間臭い所~竹垣の崩くずれた穴から、とある邸内に入り込み、下女につまみ出されそうになったところを教師(苦沙弥先生)に拾われ、住み込む。

登場人物

吾輩(主人公の猫)
珍野家で飼われている雄猫。本編の語り手。「吾輩」は一人称であり、彼自身に名前はない。人間の生態を鋭く観察したり、猫ながら古今東西の文芸に通じており哲学的な思索にふけったりする。人間の内心を読むこともできる。

珍野 苦沙弥(ちんの くしゃみ)
猫「吾輩」の飼い主で、文明中学校の英語教師。妻と3人の娘がいる。偏屈な性格で、胃が弱く、ノイローゼ気味である(漱石自身がモデルとされる)。あばた面で、くちひげをたくわえる。その顔は今戸焼のタヌキとも評される。頭髪は長さ二寸くらい、左で分け、右端をちょっとはね返らせる。吸うタバコは朝日。酒は、元来飲めず、平生なら猪口で2杯。なお胃弱で健康に気を遣うあまり、毎食後にはタカジアスターゼを飲み、また時には鍼灸術を受け悲鳴を上げたり按腹もみ療治を受け悶絶したりとかなりの苦労人でもある。

御三(おさん)
珍野家の下女。名は清という。主人公の猫「吾輩」を好いていない。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』吾輩は猫である 

夏目漱石

夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日〈慶応3年1月5日〉 - 1916年〈大正5年〉12月9日)は、日本の教師・小説家・評論家・英文学者・俳人。本名は夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。
俳号は愚陀仏。明治末期から大正初期にかけて活躍し、今日通用する言文一致の現代書き言葉を作った近代日本文学の文豪の一人。
代表作は『吾輩は猫である』『吾輩は猫である』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』など。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』夏目漱石

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などの機能を使って読書や漢字が苦手な方でも簡単にすらすらと読むことができます。

通常の紙媒体や電子書籍の小説の場合、1ページあたりの文字数が多すぎて読む気をなくしてしまう
(読書プレーヤーでは各行を1行ずつ、1文字単位のスクロール表示が可能)、

漢字の読み方(ふりがな<ルビ>)を忘れてしまって、そのたびに前のページに戻らないといけない などの理由で 読書に苦手意識のある方におすすめです。

また文字の表示方法として1文字単位のスクロール表示だけではなく

クリックまたはタップするごとに1行単位で表示するモード や 通常の小説のように1度に1ページ分の全ての文字を表示するモード  への変更(設定画面から変更可)もできます。

以下は芥川龍之介の羅生門の1ページ目から2ページ目までの 1行ずつ表示(全ての漢字にルビを表示) の例(GIF動画)

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